【第2回】  日本正学館 2 2009-1-6

時代と背景

 昭和24年、戦後の混乱は続き、国鉄をめぐる「下山事件」「三鷹事件」などが相次いだ。騒然とした世相にあって、名曲「青い山脈」が大ヒットする。若き池田編集長は、この歌を作詞した西條八十にも体当たり。「どうか少年たちに偉大な夢を与えきれる詩を書いてください!」

 時には、自ら山本伸一郎のペンネームで「ペスタロツチ」の偉人伝も書き下ろした。



日本の少年よ、世界の少年よ一人ももれなく

 明朗であれ、勇敢であれ 天使の如くあれ



 手塚治虫の回想



 昭和二十四年(一九四九年)五月、池田大作青年は、雑誌「冒険少年」の編集長に就任した。

 当時、十数誌の少年雑誌が創刊・復刊され、覇を競いはじめたころだった。

 売れっ子作家の仕事場には連日、各社の担当者が足を運び、今か、今かと仕上がりを待ちかまえる。

 小松崎茂は、日本を代表するイラスト作家である。「冒険少年」にも、口絵や絵物語を描いていた。

 画家の根本圭助が小松崎のもとに弟子入りしたのは昭和二十六年だった。思い出話を、よく聞かされた。

 「戸田城聖という人が、何度か駒込のアトリエに足を運んできた。見るからに利発そうな青年が一緒だった」

 アトリエは東京の巣鴨駅と駒込駅の間の霊園の近くにあった。編集者のたまり場になっていて、食事にあずかったり、ひたすらタバコを吹かしたり、活気を呈していた。

 「皆が騒いでいる中で、じっと静かに絵の完成を待っている。知的で折り目正しい。

 このハンサムな若者は、他の連中と、ちょっと違っていた」

 この「ハンサムな若者」こそ池田青年だった。すぐに、うち解けた。

 「おれは大好きだった。一時間も話しこんだことがある。キリスト教と仏教のどちらがすぐれているか。論争したこともあったよ」



 「冒険少年」は、当時、大変に注目された雑誌だった。

 画家の根本もバックナンバーを大切に保管していて、雑誌ブームを支えた仲間と今でも見せ合うことがある。

 以前、漫画家・手塚治虫の知られざる一面が明かされたことがあった。

 昭和三十四年ごろである。

 東京・初台のスタジオで、原稿の締め切りを終えた手塚が、アシスタントたちに語った。

 「みんな、以前『冒険少年』という雑誌があったのを知ってたかい」

 首を横に振る一同。「それじゃあ、見せてあげよう」

 二階から数冊の雑誌を抱えて降りてきた。目を輝かせながら、そっとページを繰る。

 「この本からは、何か特別な情熱みたいなものを感じたよ」

 手塚は終戦後、大阪大学医学部に通うかたわら"赤本"と呼ばれる単行本を描いて「天才漫画家」と注目されはじめていた。

 「雑誌の連載も魅力的だった。でも、この『冒険少年』は、僕が上京したころには、もうなくなっていたんだ」

 まるで昨日のことのように、残念がる。

 「あのころは、子ども向けの雑誌が続々と創刊されていてね。『冒険少年』は、ぜひ描きたい雑誌だった」



 手塚治虫をして"この雑誌には、ぜひ描きたい"と言わしめた「冒険少年」。

 その編集長こそ池田青年であった。

 編集手法に取り立てて秘密があったわけではない。一軒一軒、地道に作家宅を訪れ、執筆陣を開拓していった。他の雑誌と違ったところがあるとすれば、その情熱と誠実、なによりも限りない読者への愛情をあげるほかない。

 日記に熱意を綴っている。

 「少年よ、日本の少年よ。世界の少年達よ。願わくは、常に、一人も洩れなく明朗であれ、勇敢であれ、天使の如くあれ」

 昭和二十五年の新年号には、詩人の西條八十、探偵小説の横清正史も筆を執ることになっていた。



 悠然たる恩師



 昭和二十四年、中小の出版会社に、逆風が吹き荒れていた。

 まだアメリカの占領下である。人々の生活に暗い影をおとしていたのが、出口の見えないインフレだった。

 日本を統治していたGHQ(連合国軍総司令部)は「ドッジ・ライン」と呼ばれる政策で、経済を安定させようとした。

 その原則の一つに、「資金の貸し出しの統制」という項目があった。

 政府レベルから中小の金融機関にいたるまで、極端な融資の引き締めが行われたのである。

 今風に言えば「貸し渋り」だった。中小企業の金詰まりは日ごとにつのり、目をおおうばかりの惨状を呈した。

 日本正学館とて、その例外ではない。



 その日、十月二十五日は火曜日であった。朝から雲が空をおおい、やがてポッポッと落ち始めた秋雨が夜まで降りつづいた。

 朝九時前、二階にいる戸田城聖のもとに日本正学館の全社員が集められた。

 大手出版社が次々と仕掛けてくる大雑誌との競合で、日本正学館の経営は、すでに身動きがとれなかった。

 まず売れ行きが鈍ったのは単行本である。次に女性むけの雑誌「ルビー」も採算を割った。

 後は将棋倒しである。

 かろうじて持ちこたえてきた「冒険少年」だったが、返本率は上がり続けた。「少年日本」と改題してもなお、十冊のうち七、八冊は戻ってくる。

 作家に支払う原稿料は、とどこおりがちになり、紙問屋や印刷会社の態度も、よそよそしくなってきた。

 戸田城聖はキッパリと宣言した。

 「雑誌は全て休刊する。誰でも下すにちがいない、当然すぎる結論だよ」

 全魂こめて社員を励ましたが、みな慌てふためいた。明日から自分の生活は、どうなるのか......。

 虚脱感が押し広がる事務所で、池田青年は師の姿だけを見つめていた。

 休刊を告げた後は、ふだんとまったく変わらない。「おい、一局どうだ」。来客者をつかまえ、愉快そうに将棋をさしている。

 ──何という人だ。なにがあろうと変わらない。ぶれない。ならば自分もまた......。

 さっそく活動を再開した。

 「武蔵野へ画料を届けたのち、銀座で凸版を受け取ってまいります!」

 胸を張って残務処理に出かけた。

 ──今年の冬も、外套は、なしだな。

 心につぶやいたとき、すでに腹は決まっていた。

 「少年日本」は十二月号が最終号になった。



 出版不況。インフレ。貸し渋り

 三重にたたみかける大波である。おぼれぬように進む日本正学館は、この年のなかばごろから、水面下で打開策を講じていた。

 資金を確保するため、戸田城聖は自ら金融機関を設立する計画だった。

 「時代が時代だ。経済面にも力を入れなければいけない」と、幾度となく口にしていた。

 六月のある日、ひょっこりとあらわれた岩崎洋三が、組合のあっせん話を持ちかけてきた。

 岩崎は戦前の創価教育学会の中で実業家たちのグループにいたが、戦時中の弾圧によって早々に退転していた。

 経済人だけあって利にさとい。平気で寝返るタイプであった。戦後もまた、かつての変節などなかったような顔で、戸田のもとへ出入りしていた。

 岩崎が言う組合とは、東京建設信用購買利用組合のことである。

 かつて東京都の土木局長をしていた元役人がその理事長をしていた。収益構造を改善するために、協力者を探していたのである。

 いわゆる産業組合法にもとづく「購買利用組合」を、金融部門の「信用組合」に転換しようという算段だった。

 戸田は取りあえず理事長に会ってみた。少し話をしただけで、彼の無能ぶりにあきれた。

 元役人らしいというか、武士の商法さながらの放漫経営である。

 それでも実情を冷静に調べたうえで経営を引きうけることを決断した。

 それまで通産省の監督下にあった組合が、金融部門をあつかう信用組合へと衣替えする。それには大蔵省の認可が必要だった。

 官僚だった理事長の見通しは甘く、ようやく通産・大蔵両省の印鑑がそろったのは、東京の街を秋のとばりがつつむころだった。

 ここに東京建設信用組合が、戸田城聖を専務理事として発足する。

 事務所は日本正学館と同じ西神田におかれた。