第1回  日本正学館 1-2

神田の街角で



 これほど強い宗教の負のイメージをぬぐい去った戸田城聖という人物とは?

 作家の西野辰吉は述べている(『伝記 戸田城聖』)。

 「あるものには"受験の神様"にみえ、あるものにはあぶなっかしい素人事業家にみえ、あるものには山師ふうな法螺ふきのようにもみえたりして、出会った多くのひとの記憶にさまざまな貌をのこしている」

 戸田会長と接した人ごとに「さまざまな貌」があるのだという。

 受験の神様。

 私塾「時習学館」で使っていたプリントをまとめた『推理式指導算術』が百万部を超えるベストセラーになった。

 事業家。

 神田淡路町にあった印刷工場を手に入れ、出版事業へ。

 作家・子母沢寛の選集を発刊するために「大道書房」という会社もつくった。

 戦前、十七の会社があり、さらに吸収する予定になっていた。

 しかし、戦争ですべてが狂い、残ったのは二百数十万円の負債だった。

 ニックネームは「雲雀男」。低い空からヒバリのように、高く舞いあがる。たしかに徒手空拳から事業をおこす手腕にすぐれていた。

 上京間もないころ、同郷の友人たちと自炊生活をした。

 渋谷・道玄坂の露店で下駄を売ったり、保険の外交員をやって生活をしのいだ。下駄の緒は自ら作った。

 結婚まもない妻もカツオ節の行商までやったという。そこから一代の財をなした。

 以下、余談である。

 ほかにもユニークな教育事業を手がけた。

 昭和初期、進学を希望する小学生を集め、「東京府綜合模擬試験」を開く。

 受験料は一人五十銭。今日の貨幣価値に直せば、およそ千円になるだろうか。

 数千人が受け、答案の返却方法にも、なかなかの工夫があった。

 次回の試験日に返し、上位百番までは氏名と学校名を公表する。あとは受験番号のみとした。志望校を決める、またとない目安である。大いに人気を博したという。



 宗教への抵抗がある青年。さまざまな貌をもっている宗教者──。では、この二人が稀有の師弟関係を結びえた理由とは。

 ひとつに戸田会長は、いわゆる抹香臭い人物ではない。

 俗世のチリひとつない聖人君子などではなく、戦後の荒波のど真ん中で、抜き手を切って泳いでいる。

 法華経の講義もおもしろい。善男善女を煙に巻く、おごそかな説法ではない。

 金襴の袈裟衣で幻惑させるどころか、夏場など、もろ肌脱いで法を説く。

 生活法のようであったり、哲学論であったり、ときに落語家も顔負けのユーモアであったりと、千変万化の興趣に富んでいた。

 ときおり、度の強いめがねを外し、御書に顔をこすりつけるように読んだ。

 講義が終わると、参加者と家路につく。師を囲む人の輪は、にぎやかだった。

 神田の酒屋に寄ることもあった。かまぼこ屋の隣にあり、軒下に縁台がある。

 そこに腰かけ、気心の知れた連中とコップ酒。塩をつまみに「きょうは金がないから一杯ずつだぞ」。ぐいっとあり、駅に向かった。戸田会長が"一杯やる"相手は一部の壮年だけである。



宗教には反発しながらも戸田城聖という人間的な魅力に対してはどうすることもできなかった



 名編集者の才能



 そんな上機嫌な恩師を池田青年は遠巻きに見守った。

 戸田宅は目黒駅に近い。

 住所は港区だが"目黒の戸田先生のお宅"と言われたゆえんである。

 山手線で目黒までの車中、吊り革につかまり、会長は講義の続きを語った。みな、群がるように聞いた。品川まで行く池田青年は、目黒でおりる師を最敬礼で見送った。

 仕事の上でも二人は強く結ばれ、師弟は運命を共にしていた。

 なによりも、池田青年は「日本正学館」の仕事が好きだった。読書家であり、元来はジャーナリズムの世界に身を置くことを望んでいた。

 後年、ジャーナリスト志望の青年に語っている。

 「本当は新聞記者になりたかった。それが戦争のため叶わなかった。私も戦争犠牲者の一人だ」

 長い間、神田は出版界の中心地だった。

 日本正学館の右隣も謄写版の印刷所で、左隣は製本会社だった。どの角を曲がっても、製本所や印刷所の看板が目に飛び込んでくる。

 日本中が活字に飢えている時代には、日が暮れても工場から、たえまなくガッチャン、ガッチャンと機械音が鳴り、印刷物が積み上げられた。風のない日など、路地裏にインクのにおいが、ふと立ちこめる。

 貸本屋の主が、仕入れた本を風呂敷に包んで背負っている。喫茶店では、編集者が作家と打ち合わせしていた。

 この街で働くこと自体が大きな喜びだったといえよう。

 「冒険少年」(のちに「少年日本」と改題)は日本正学館の主力雑誌である。編集兼発行人は戸田城聖

 名編集者たちの自伝、伝記類を読むと分かることだが、そもそも編集長とは、自分の我がままを押し通すのが仕事である。鬼編集長ほどアクが強く、妥協しない。

 部下の編集者に求めるものは、一にスピード、二に正確さである。

 締め切りに間に合わなければ、すべてはぜロである。たとえ間に合っても、ミスが活字になることほど恥ずかしいものはない。

 戸田会長は、仕事に厳しかった。ささいなミスも見逃さない。百雷のごとき叱咤が下った。「私から逃げたいなら、逃げろ! ついて来るならば、ついて来い!」

 池田青年は必死で食らいついた。

 戸田会長も編集者としての池田青年の才能を早くから見抜いていた。

 一つの企画をまかせると、つねに的を射た作品ができあがってくる。スピードがある。しかも丁寧だった。

 編集業務には、常に修羅場がつきまとう。

 たとえば印刷に回す直前の大幅な直し。校了まで、せっぱつまった瀬戸際に、おどおどするタイプは向かない。

 池田青年は土壇場に強かった。熱くなりがちな場面ほど冷静沈着に判断できる。

 五月には早くも敏腕を買われ、「冒険少年」の編集長をまかされたのである。

      

時代と背景

 「私は、やがてルビコンを渡った」(池田大作著『私の履歴書』)。昭和22年8月14日、蒲田の座談会で戸田城聖と出会い、入会(同24日)するが、一緒に働きはじめるまでの葛藤を古代ローマの故事にたとえている。

 翌23年秋、法華経講義を受講してまもなく、日本正学館入りを打診され「一も二もなく『お願いします』と即座に答えた」(同)。大みそか、蒲田工業会を円満退社。初出動は、その3日後のことだった。賽は投げられたのである。





 この連載は、戸田城聖第二代会長と出会った池田SGI会長が、恩師の膝下で送った青春の日々を取材。今回、初めて明らかになった秘話、エピソードを織り込みながら、不世出の民衆指導者の実像に迫るものです。

 原則として火、水、金、土曜の週4回掲載。執筆には、丹治正弘(本社編集局長)、大島範之(同局次長)をはじめ特別取材班があたります。