小説「新・人間革命」  1月17日 新世紀48

一九七三年(昭和四十八年)の秋、信濃町で会談した松下幸之助山本伸一は、どちらからともなく、こんな話になった。

 ――二人の語らいを、なんらかのかたちで、記録として残しておくことも、意味があるのではないか。

 そして、二人が直接会う機会は限られているので、互いに聞きたいことや回答を、書簡でやりとりすることになった。

 折から、第四次中東戦争を機にアラブ産油国原油価格を大幅に引き上げたことから、いわゆる「オイルショック」が起こっていた。日本経済は大きな打撃を受け、将来に暗雲が垂れ込め始めたころである。

 また、松下は、この年七月、松下電器産業の会長を退き、相談役となっていた。

 松下は、待っていたかのように、続々と質問を寄せてきた。いずれも、日本の針路を真剣に模索したもので、政治・経済に始まり、人生論、生命論、文明論等々、テーマは人事百般にわたった。

 文面には、二十一世紀をどうするかという熱情があふれていた。責任と使命に生きる人には、燃える情熱がある。

 松下は八十歳になろうとしていた。伸一は、まだ五十歳にも満たない若輩である。“本来、質問させていただき、教えを受けるべきは自分である”と、伸一は思っていた。

“しかし、お尋ねいただいた以上、力の及ぶ限り、誠心誠意お答えせねばならない”

 伸一は、全精魂を注いで質問に答えた。

 松下も真剣であった。七四年(同四十九年)の初訪中の折、見送りに来た松下の関係者が、「松下相談役からです」と言って分厚い封筒を伸一に渡した。機中、封を切ると質問を認めた何枚もの原稿用紙であった。 

 伸一は、ユーモアを交えて峯子に言った。

「これは『中国訪問中も忘れずに回答を書きなさい。何かがあるからといって、やるべきことを怠ってはならない』とのご指導だ。さすが松下先生だ。最高のお餞別だね」

 そして旅先でも、せっせと回答を書いた。