【第12回】 水滸会 5 2009-1-23
覚えておきなさい すべては三代目で決まる
第三代の会長は この中から出るのだ
池田部隊長の一日
水滸会の全貌が明らかになるにつれて強く感じる点があった。この指導会は、戸田城聖会長が第三代会長のために構想を語り残す機会ではなかったのか。
「今に三代目の会長が、この中から出るだろう」
水滸会で明確に宣言した。
「二代目は頭がよくなくても、一代目の威信を守っていればよい。
おぼえておきなさい。三代目で偉いのが出るかどうかで決まる」
近い未来を予見した。
「したがって三代目は非常に難しいことになる。徳川は三代目がよかったから続いた。また三国志の孫権は三代目として内治派の英雄であったから、よく国が保った。
三代目の会長は、この中から出るのだ」
戸田会長が会合ではじめて第三代会長に言及したのは、会長就任から間もない昭和二十六年七月十一日だった。
「きょう集まられた諸君のなかから、かならずや次の学会会長が現れる」
その視線の先に、池田大作部隊長がいたことは疑いない。第二代が生まれた直後、すでに第三代の道を示している。
当時、池田部隊長が、どのような日々を過ごしていたか。その一日の一端を再現してみたい。
ある朝、京浜東北線の車内に、声が響いた。
戸田会長の会社で働く社員の一人が振り向くと、池田部隊長の姿があった。
「ここで降りましょう」
東京駅で一緒に改札を出た。なにか見せたいものがあるのか、タクシーで市ヶ谷を目指す。皇居の北側から九段下を抜け、外堀通りへ出る。
悠々と外をながめながら「なつかしいな。あの堀端を見なさい」。西神田も近い。戸田会長と日々、奮闘してきた街並みである。折々に受けた指導を教えてくれた。
どんな風景を見ても、口をついて出るのは、恩師のことばかりである。
会社がある市ヶ谷ビルの、かなり手前で車を停めた。首をかしげる後輩に語った。
「戸田先生が降りられる場所で降りたら、申し訳ないじゃないか」
出社後の「早朝講義」などの様子は既述の通りである。
戸田会長は午前中、市ヶ谷で働き、午後になると、信濃町の学会本部に移動した。
池田部隊長も夕刻、いったん仕事を終え、市ヶ谷から本部に向かう。
向かって左に「創價学會」の看板が立つ門を抜ける。本部には一匹の犬がいた。
「シロ!」
そっと頭をなでると、シッポを振りながら、足元にまとわりつく。
いつの間にか、迷いこんだ犬である。師がかわいがり、小屋を作って飼っていた。
檜舞台へ立つ
学会本部の建物に入って、右側の秘書室を経由してから二階に上がる。
会長室で待っていた師に会い、短く報告。指示を受けて、また出ていく。
聖教新聞の販売部にいた、辻敬子。「まさに疾風のようでした」と振り返る。
「いつもバッと来られて、バッと出て行かれる。あのようなかたちで、会長室に頻繁に参上しておられたのは、池田先生だけだった」
金曜日の夜、戸田会長は豊島公会堂に向かった。御書講義を行うためである。「一般講義」と呼ばれ、会員は誰でも参加できた。
池田部隊長も駆けつけた。だが、場内の座席には座らない。舞台の袖から戸田会長を、じつと見つめる。
恩師は時折、椅子の上であぐらをかき、演台の上にグッと乗り出すように熱弁している。
いつもと変わらぬ姿だ。
安心した面持ちで、公会堂を後にした。仕事のため、池袋駅に向かう。
後輩に語っている。
「一度でいい。一度でいいから、戸田先生の講義を席に座って最後までうかがいたいものだ」
戸田会長を事業の苦境から救ったのは、池田部隊長である。後継者の記別も、この渦中に託されている。
その後、矢島周平に乗っ取られるかに見えた学会を、師の手に取り戻し、第二代会長に就任せしめた。
会長就任を見届けた後、けっして組織の表舞台に出ることなく、学会の基盤を支え続けた。
東京の各地で、組織の拡大にも、傑出した結果を残している。さらに、昭和三十年(一九五五年)には北海道の小樽で日蓮宗(身延派)との法論があったが、これも完璧に打ち破った。
すべて池田部隊長が勝利への突破口を開いたのである。
いわば、戸田会長は図面は引いた。だが、土地を整備し、実際に建物を建てたのは、真の弟子だった。
こう言っては、あるいは池田会長に叱られるだろうが、歴史の事実に照らせば、こう言わざるを得まい。
「戸田城聖を戸田城聖たらしめたのは、池田大作である」と。
無名でもいい。無冠でもいい。師匠のために役に立てればそれでいい。陰に徹しようとする弟子を、師は表舞台へと引き出していく。
池田部隊長が後継者であることは明白だったが、まだ公にはしない。ただ「第三代を守れば広宣流布はできる」と遺言した。
戸田会長は実学の人である。理でなく実を好む。
作戦本部で想を練る参謀でなく、野戦の司令官である。後継者も、そうでなければならない。
これまで、戸田大学、水滸会で真情と未来への構想を十分に伝えてきた。
あとは実地訓練である。
天下分け目の戦場から、勝ち名乗りを上げられるかどうかである。
すでに第一部隊や蒲田、文京で存分に手腕を発揮している。いよいよ大合戦の指揮官として立つときだ。
その舞台は、大阪だった。
時代と背景
激務の戸田会長を陰で支えたのは、池田部隊長だった。昭和29年、青年部の室長と学会の渉外部長に就任。75万世帯へ学会を牽引しながら、一切の攻防戦の矢面に立つ。
大手メディアや右翼の中傷にも一人で抗議に立ち向かった。「なんとあさはかな言論よ。なんと責任なき批評か。思い上がりの評論家たちにあきれる」(池田大作著『若き日の日記』)
第三代の会長は この中から出るのだ
池田部隊長の一日
水滸会の全貌が明らかになるにつれて強く感じる点があった。この指導会は、戸田城聖会長が第三代会長のために構想を語り残す機会ではなかったのか。
「今に三代目の会長が、この中から出るだろう」
水滸会で明確に宣言した。
「二代目は頭がよくなくても、一代目の威信を守っていればよい。
おぼえておきなさい。三代目で偉いのが出るかどうかで決まる」
近い未来を予見した。
「したがって三代目は非常に難しいことになる。徳川は三代目がよかったから続いた。また三国志の孫権は三代目として内治派の英雄であったから、よく国が保った。
三代目の会長は、この中から出るのだ」
戸田会長が会合ではじめて第三代会長に言及したのは、会長就任から間もない昭和二十六年七月十一日だった。
「きょう集まられた諸君のなかから、かならずや次の学会会長が現れる」
その視線の先に、池田大作部隊長がいたことは疑いない。第二代が生まれた直後、すでに第三代の道を示している。
当時、池田部隊長が、どのような日々を過ごしていたか。その一日の一端を再現してみたい。
ある朝、京浜東北線の車内に、声が響いた。
戸田会長の会社で働く社員の一人が振り向くと、池田部隊長の姿があった。
「ここで降りましょう」
東京駅で一緒に改札を出た。なにか見せたいものがあるのか、タクシーで市ヶ谷を目指す。皇居の北側から九段下を抜け、外堀通りへ出る。
悠々と外をながめながら「なつかしいな。あの堀端を見なさい」。西神田も近い。戸田会長と日々、奮闘してきた街並みである。折々に受けた指導を教えてくれた。
どんな風景を見ても、口をついて出るのは、恩師のことばかりである。
会社がある市ヶ谷ビルの、かなり手前で車を停めた。首をかしげる後輩に語った。
「戸田先生が降りられる場所で降りたら、申し訳ないじゃないか」
出社後の「早朝講義」などの様子は既述の通りである。
戸田会長は午前中、市ヶ谷で働き、午後になると、信濃町の学会本部に移動した。
池田部隊長も夕刻、いったん仕事を終え、市ヶ谷から本部に向かう。
向かって左に「創價学會」の看板が立つ門を抜ける。本部には一匹の犬がいた。
「シロ!」
そっと頭をなでると、シッポを振りながら、足元にまとわりつく。
いつの間にか、迷いこんだ犬である。師がかわいがり、小屋を作って飼っていた。
檜舞台へ立つ
学会本部の建物に入って、右側の秘書室を経由してから二階に上がる。
会長室で待っていた師に会い、短く報告。指示を受けて、また出ていく。
聖教新聞の販売部にいた、辻敬子。「まさに疾風のようでした」と振り返る。
「いつもバッと来られて、バッと出て行かれる。あのようなかたちで、会長室に頻繁に参上しておられたのは、池田先生だけだった」
金曜日の夜、戸田会長は豊島公会堂に向かった。御書講義を行うためである。「一般講義」と呼ばれ、会員は誰でも参加できた。
池田部隊長も駆けつけた。だが、場内の座席には座らない。舞台の袖から戸田会長を、じつと見つめる。
恩師は時折、椅子の上であぐらをかき、演台の上にグッと乗り出すように熱弁している。
いつもと変わらぬ姿だ。
安心した面持ちで、公会堂を後にした。仕事のため、池袋駅に向かう。
後輩に語っている。
「一度でいい。一度でいいから、戸田先生の講義を席に座って最後までうかがいたいものだ」
戸田会長を事業の苦境から救ったのは、池田部隊長である。後継者の記別も、この渦中に託されている。
その後、矢島周平に乗っ取られるかに見えた学会を、師の手に取り戻し、第二代会長に就任せしめた。
会長就任を見届けた後、けっして組織の表舞台に出ることなく、学会の基盤を支え続けた。
東京の各地で、組織の拡大にも、傑出した結果を残している。さらに、昭和三十年(一九五五年)には北海道の小樽で日蓮宗(身延派)との法論があったが、これも完璧に打ち破った。
すべて池田部隊長が勝利への突破口を開いたのである。
いわば、戸田会長は図面は引いた。だが、土地を整備し、実際に建物を建てたのは、真の弟子だった。
こう言っては、あるいは池田会長に叱られるだろうが、歴史の事実に照らせば、こう言わざるを得まい。
「戸田城聖を戸田城聖たらしめたのは、池田大作である」と。
無名でもいい。無冠でもいい。師匠のために役に立てればそれでいい。陰に徹しようとする弟子を、師は表舞台へと引き出していく。
池田部隊長が後継者であることは明白だったが、まだ公にはしない。ただ「第三代を守れば広宣流布はできる」と遺言した。
戸田会長は実学の人である。理でなく実を好む。
作戦本部で想を練る参謀でなく、野戦の司令官である。後継者も、そうでなければならない。
これまで、戸田大学、水滸会で真情と未来への構想を十分に伝えてきた。
あとは実地訓練である。
天下分け目の戦場から、勝ち名乗りを上げられるかどうかである。
すでに第一部隊や蒲田、文京で存分に手腕を発揮している。いよいよ大合戦の指揮官として立つときだ。
その舞台は、大阪だった。
時代と背景
激務の戸田会長を陰で支えたのは、池田部隊長だった。昭和29年、青年部の室長と学会の渉外部長に就任。75万世帯へ学会を牽引しながら、一切の攻防戦の矢面に立つ。
大手メディアや右翼の中傷にも一人で抗議に立ち向かった。「なんとあさはかな言論よ。なんと責任なき批評か。思い上がりの評論家たちにあきれる」(池田大作著『若き日の日記』)