【第13回】 大阪の戦い 1 2009-1-24

なぜ関西は強いのか──

池田室長と戦った昭和31年の金字塔にその原点がある



 常勝の源流へ

 大阪・天王寺

 「えらいこっちゃ、もうすぐ始まるで」

 「ほんまや。走ろか」

 男たちが次から次へ、民家に駆け込んでいく。

 昭和三十一年(一九五六年)初夏。拠点闘争が続いていた。

 隣は自転車店だった。道路に、もうもうと砂ぽこりが上がる。店主が水道のホースを手に散水していた。

 "まったく、毎日毎日、ようけ来よるなあ"

 時々、キーツとにらんだり、わざと水をかけた。

 "つぎ来るやつに、また水かけたろか"

 その時、一人の青年が足早に近づいてくる。精悍な顔つきである。青年部の池田大作室長だった。

 近所の一軒一軒に失礼はないか、目を配っている。昼から飲んでる男も多い町で、こんな紳士的な人はいない。

 ニコツとほほ笑み、会釈された。自然と店主もペコッと頭をさげた。

 礼儀正しい。それでいて、堂々としている。

 隣の家に消えると、側にいた人にたずねた。

 「今来た人、あの人、だれやねん?」

 「ああ、創価学会の青年部で一番えらい人ですわ」

 「うーん、そうか。そうやろうな。あの人なあ、今に天下一のえらい人になるで」



 東住吉の拠点。

 「きょうは東京から、すごい人が来はるんや」

 「そんなら、私もいくわ」

 「あかん、あかん。もう夜は遅い。きょうは壮年部の会合や」

 夫は軽快な足取りで出掛けていった。

 妻の森脇喜代子は、どうしても"すごい人"の話を聞きたい。こっそり会場へ向かったものの、さすがに中には入りづらい。

 暗い庭先で耳を澄ます。雨戸ごしに声がした。ナポレオンの話のようだった。

 「この信心に不可能はない! 幸せになれないわけがありません!」

 びりびり戸板がゆれるような気迫にぶったまげた。

 もっと聞きたい、もっと知りたい。

 息を殺して、雨戸にぴったり張りついていると、巡回中の警官に「そこでなにしとるんや」。

 空き巣とまちがえられたが、あの凛々たる声は、いつまでも心に消えなかった。

 白木義一郎(初代大阪支部長)の回想。

 戸田城聖会長の話になると、池田室長は、とたんに居ずまいを正した。記憶が実に正確である。

 「何年、何月、何日の晴れた日、あの時、こうだった」

 師と語らった日時、場所、天気、話の内容、その時の恩師の表情、身ぶり。

 あらゆる出来事を完壁に再現してくれた。まるで戸田会長の録音テープの再生を聴くようだった。



 なぜ大阪は強いのか──。

 いつのころか、関西といえば「常勝」の冠がつくようになった。

 昭和三十一年に、創価学会として初めて推薦候補を立てた参院選があった。池田室長が大阪の責任者になり、完全な圏外から「まさか」の当選を勝ち取った。

 一カ月に一万一千百十一世帯を弘教する金字塔を打ち立て、冒頭にあげたようなエピソードが、いくつも語り継がれている。そこに大阪の原点があることは間違いない。

 しかし、五十年以上たっても揺るがない強さの秘けつとは──。



 初めての講義

 聖教新聞の関西支社では、当時の会員の回想録を大切にしまってある。

 大阪へ向かった。大きな段ボール箱が四つ。貴重な原稿の山である。

 執筆者の存命を確認していく。大半は物故者だったり、病気療養中だったが、百人近い人物が健在していた。このリストをもとに「常勝の謎」を解く取材を開始した。



 地下鉄なんば駅から雑踏をかき分け道頓堀へ。

 ミナミの繁華街は、店の看板が驚くほどせり出している。隣の店より、うちのほうがと、あからさまに目立とうとしている。

 堺筋を左へ折れ、道頓堀川に架かる日本橋を渡る。かつて、その辺りに、京屋旅館があった。

 昭和二十七年(一九五二年)八月、池田室長と戸田会長が大阪への第一歩を印した拠点である。

 ここから百万組織の拡大がはじまる。

 そう思うと、ミナミの看板や風景にも、何やら大切な意味が感じられる。

 この町でのしあがるんやったら、遠慮なんかいらん。格好つけるな。おもろないとあかん。

 まったく無名の創価学会が勝ち上がっていく過程にも、そんな浪花のど根性が発揮されたにちがいない。

 大阪には、東京への強い対抗意識がある。

 生粋の江戸っ子である池田室長が、早い段階から大阪の会員に「先生」と呼ばれ、慕われたことが不思議でならなかった。

 大阪府の地図を広げ、京屋旅館のあった場所に赤い印を付けた。ここから池田室長が足跡を伸ばした場所へ印をつけながら、くまなく当たる。

 地図が赤く染まるころ、なにかが見えてくるはずだ。



 昭和二十九年、池田室長は大阪に足しげく通いはじめ、九月二十六日に初めて御書講義を行った。

 天王寺区の上本町駅に近い弘洲会館が会場だった。

 外は風が強い。

 この日未明、九州の大隅半島に上陸した台風十五号は西日本一円を暴風圏に巻きこみ、日本海に抜けた。

 やがて、函館湾で青函連絡船「洞爺丸」など五隻の船を飲みこむが、弘洲会館の二百人は知るよしもない。

 京都市の逢坂琴枝は、やっと工面した交通費を握りしめ、京都から大阪まできた。

 地図を手にしたまま、上本町の路上で道に迷った。困っていると、見るからに凛々しい青年がいる。

 親切に教えてくれた。涼やかな目。若いのに何ともいえない威厳がある。

 びゅうと音をたて、風が吹き抜けた。逢坂は我にかえって、あわてて会場への道を駆け出した。

 弘洲会館は、ぎっしりと人で埋まっている。午前九時ちょうど、白木義一郎に続いて、場内前方に人が現れた。

 逢坂は跳び上がりそうになった。あの青年ではないか!

 「東京から来てくださった池田室長です」

 白木に紹介された室長は「大阪の皆さん、おはようございます」と、歯ぎれよくあいさつをして席に着いた。

 この日、午前中は「諸法実相抄」、午後は「当体義抄」と、一日がかりで講義が行われることになっていた。

 阿倍野から参加した奥野修三は幼いころから吃音で悩んでいた。

 「諸法実相抄」の講義が始まる。

 さっと会場を見渡した池田室長は、奥野に教材を読むように指名した。

 「しょ、しよ、しよほう、じ、じ、じっそう、しよう......」

 立ち上がってタイトルを読み始めたが、満座のなかで奥野は、しどろもどろである。

 苦笑する者もいたが、不思議と場内は温かい。軽んじてはいけない空気がある。

 それは中心者が醸し出すものだった。

 池田室長は、じっと聞いている。つっかえ、つっかえ読んでいる奥野の一言二言にうなずく。目顔で"もっとゆっくり"と語りかけた。

 じつは四カ月前の五月十六日、入会して三カ月の奥野は西成区の花園旅館で池田室長に会っている。

 そのとき、吃音や引っ込み思案の性格に悩んでいることを打ち明けた。室長は奥野に経験を積ませるため、あえて指名したのである。

 もっとも場内の大半は、奥野といい勝負だったかもしれない。漢字は苦手だし、人前で何かを述べる経験も薄い。

 ある時など「四信五品抄」が教材だったが"抽選で五品くれるんや"と思って参加した女性もいたほどである。

 吃音だからといって卑下することはない。読んだり、学んだりすることが苦手だからこそ、ここに集まって勉強しているのではないか。

 学会は「学ぶ会」と書くが、ここには妙な序列もなく、互いに助け合う学校に似ていた。

        

時代と背景

 昭和27年2月1日、プロ野球投手の白木義一郎が大阪支部長心得として赴任。同年8月14日夕、池田室長は大阪へ第一歩を印す。恩師と出会って5周年の日だった。帰京の途、一詩を綴った。

「旅人は征く(中略)いずこより来り いずこに

 還りゆかなん悲劇の旅より 希望の路に......」

 昭和30年に地方議会に進出した学会は、翌年、参院選に挑む。白木が大阪の候補者となった。