【第14回】 大阪の戦い 2 2009-1-28
私は戸田先生に代わって御書講義をしている
師が見ていると思って全力でのぞみなさい
きれいに使われた御書
昭和二十九年(一九五四年)九月二十六日、青年部の池田大作室長による御書講義が始まった。
京都から来た逢坂琴枝は驚いた。
各宗派の本山が、京都にはひしめいているが、眠くなる坊さんの説法ではない。りりしい青年が歯切れ良く語っているだけでも、新鮮このうえない。
しかも講義なのに、理屈っぽくない。それでいて、頭が整然と整理できる。
俗に言うところの、ありがたい話ではなかった。仏さんという遠い存在を語るのではなく、現実の生活を見つめる話だった。
同じ会場で、大阪の班担当員だった北側照枝も、ほれぼれと聴き入っていた。
生活に密着している。だからビシッと心に入る。なにか身体がうずうずして、動き出さずにはいられない。喜んで動き、働くから、生活も改善される。
「ほかの人の話は、教義が優先。理屈も大事やけど、それだけでは喜びがわいてきまへん」
「ほかの人」とは東京の幹部のこと。北側の言葉を借りれば、生活に密着していないから実践の後押しにはならず、喜びもわかない。
なによりも室長の講義は、自分の言葉、自分の確信で語られていた。
他の幹部は、どこか戸田会長のものまねだったり、いたずらに理論を押しつけていた。なかには勉強不足を声の大きさや、威圧感でごまかす者もいた。
まだ大阪に創価学会の自前の建物はない。天王寺区の夕陽ケ丘会館や北区の計量研究所などを借りた。
翌三十年の一月。教学部員になるための試験が行われた。筆記につづいて口頭試問である。
吃音で悩んでいた奥野修三が見違えるように、すらすらと質問に答えた。毎回の講義で御書を読むうちに、すっかり治っていた。
「おい、池田室長の講義は違うでえ」。評判になった。
ある青年部員は室長の御書に注目した。
あんなにすごい講義ができるのは、よっぽど書き込みがあるからではないか。
休憩時間。好奇心にかられ、そっと室長の御書を手に取った。
きれいだった。所々に朱筆で傍線が引かれ、丸印が入れられている。その線や印すら、きちっ、きちっと整っている。きたない書き込みなど、どこにもない。
講義を始めたのは第五期の教学部員候補からだったが、第六期から希望者が殺到する。とうとう候補を選ぶための予備試験まで行われた。
池田室長が、豊中方面の拠点であった矢追久子宅を訪れた時、そこに居あわせたのが、峰山益子だった。
阪急電鉄の創業者・小林一三ゆかりの図喜館「池田文庫」に勤めていた。
「御書を持っていますか」
室長がたずねた。
「あ、いえ」
「何万冊もの本に囲まれて御書がないなんて」
ため息をついた室長は、御書を学ぶ大切さを説いてから、すらすらと便せんに万年筆を走らせた。
月光の如く
尊き乙女して
永久の功徳を
強く受けきれ
峰山は、仰天した。がみがみ叱る幹部はいても、即興の和歌を贈ってくれる人がいるだろうか。
すぐさま御書を購入すると、第六期の教学部員候補に手を挙げた。誰もが室長の講義を聞きたがった。
心をつかむユーモア
ある日の講義。
室長が会場に入った後で、だらだら青年部の幹部が遅れて現れた。まったく求道心が感じられない。
ちらっと視線を向けるや、火を噴くような声を放った。
「その態度は何ごとだ!」
幹部たちは立ちすくんだ。
「本日、私は師匠である戸田先生に代わって講義を担当させていただいている。そういう決意でのぞんでいる。
であるならば、真剣さを欠くとは、もってのほかだ」
それから、ゆっくり正面に向き直ると、すっかり怒気は消えている。
「これは幹部に言っているんです。あなたたちにではありません」
受講者の博多洋二は、その気迫に圧倒された。頭では分かったつもりだったが、師弟という間柄の厳しさを初めて思い知らされた。
村田只四にも、忘れがたい思い出がある。
御書を講義していると、その会場に室長が入ってきた。席を譲ろうとしたが「そのまま続けて」。
視界に入る位置から、厳しい表情で村田を見つめている。いい加減なことは言えない。背中に冷や汗を流しながら、全魂をこめて話した。
終わってから室長が村田に言った。
「御書講義は戸田先生の名代として行うものです。私はいつも戸田先生が、そばにいらっしゃると思って講義をしています。きょうのように、私がいつも見ていると思って全力でやりなさい」
室長の講義には、確信があり、聴いていて力がわく。
まだまだ、そのほかにも、関西で受け入れられ、慕われる理由がないか。取材班が考えながら大阪を歩いた。
大阪環状線で、向かいの乗客が「大阪スポーツ」いわゆる"大スポ"を広げている。
超低空でUFOを発見という記事を、そばの小学生がネタにしている。
「まじ、すげえ。民家の上空に出現やって」
「あほか、こんなん、はったりに決まってるやんけ」
ボケとツッコミの分担が自然とできている。大阪は「お笑い文化」の発信地である。面白いか、面白くないか。この尺度は、やはり大きい。
ある証言。戸田会長は講義で、こんな話をしたという。
「私が大阪に来るのは貧乏人と病人をなくしたいからだ。今は貧乏でも心配するな。そのうち聖徳太子(当時の千円札)がオイッチニー、オイッチニーと行列を作って家に入ってくるぞ」
聖徳太子が行列......爆笑が会場を包んだことは言うまでもない。
池田室長が生野区の座談会に入った時のことである。
かつて革新政党の幹部だった男が参加していた。今は魚を行商していたが、フライドの高さがにじみ出ていた。
室長は、その壮年に語りかけた。
「この信心で必ず願いは叶います。叶わなければ、この池田の首をあげる」
そう言ったあと「あっ、あなたは魚屋さんだから、私の首をあげても、アラにもならんだろうね」。
しかめっ面をしていた魚屋がぶっと吹き出した。あとは話が早い。その場で、入会を決めた。
また池田室長はよく、にわか大阪弁を使った。
「お元気でっか」「もうかってまっか」
何ともいえない親しみがあり、相手のハートをつかむのである。
室長のユーモア精神は、東京の創価学会の幹部の中では極めて珍しかった。
東京には室長の先輩格の幹部が数多くいる。
石田次男。威張っていた。
戸田会長の話を聞いても、「ほう、ほう」と相づちを打つ。不遜な態度だった。後輩と食事に行くと「僕くらいになると、少欲知足で、食欲もないんだよなあ」と、すかしていた。
石田の妻も、よく似ていた。「戸田先生のおっしゃっていたこと、ここが違うのよね」と平気で口にした。
竜年光。まるで相手をなじり倒すように話すのが特徴だった。
当時の会員らの回想。
「あまりに狂気じみていて、まともに目を見ることができなかった」
「いつも会合に、怒鳴られに行くようなもんだった。信仰というのは怒鳴られるものなんだと思っていた」
石田や竜だけではない。ほとんどの幹部が号令をかけてばかりいた。自分では動かない。そのくせ後輩の失敗や欠点ばかりをあげつらい、罵倒した。
東京から大阪へ派遣される幹部も、似たり寄ったりである。入会して日の浅い大阪の会員を、どこか小バカにしたような臭みがあった。
同じ目線で語りかけるのは池田室長一人だった。
師が見ていると思って全力でのぞみなさい
きれいに使われた御書
昭和二十九年(一九五四年)九月二十六日、青年部の池田大作室長による御書講義が始まった。
京都から来た逢坂琴枝は驚いた。
各宗派の本山が、京都にはひしめいているが、眠くなる坊さんの説法ではない。りりしい青年が歯切れ良く語っているだけでも、新鮮このうえない。
しかも講義なのに、理屈っぽくない。それでいて、頭が整然と整理できる。
俗に言うところの、ありがたい話ではなかった。仏さんという遠い存在を語るのではなく、現実の生活を見つめる話だった。
同じ会場で、大阪の班担当員だった北側照枝も、ほれぼれと聴き入っていた。
生活に密着している。だからビシッと心に入る。なにか身体がうずうずして、動き出さずにはいられない。喜んで動き、働くから、生活も改善される。
「ほかの人の話は、教義が優先。理屈も大事やけど、それだけでは喜びがわいてきまへん」
「ほかの人」とは東京の幹部のこと。北側の言葉を借りれば、生活に密着していないから実践の後押しにはならず、喜びもわかない。
なによりも室長の講義は、自分の言葉、自分の確信で語られていた。
他の幹部は、どこか戸田会長のものまねだったり、いたずらに理論を押しつけていた。なかには勉強不足を声の大きさや、威圧感でごまかす者もいた。
まだ大阪に創価学会の自前の建物はない。天王寺区の夕陽ケ丘会館や北区の計量研究所などを借りた。
翌三十年の一月。教学部員になるための試験が行われた。筆記につづいて口頭試問である。
吃音で悩んでいた奥野修三が見違えるように、すらすらと質問に答えた。毎回の講義で御書を読むうちに、すっかり治っていた。
「おい、池田室長の講義は違うでえ」。評判になった。
ある青年部員は室長の御書に注目した。
あんなにすごい講義ができるのは、よっぽど書き込みがあるからではないか。
休憩時間。好奇心にかられ、そっと室長の御書を手に取った。
きれいだった。所々に朱筆で傍線が引かれ、丸印が入れられている。その線や印すら、きちっ、きちっと整っている。きたない書き込みなど、どこにもない。
講義を始めたのは第五期の教学部員候補からだったが、第六期から希望者が殺到する。とうとう候補を選ぶための予備試験まで行われた。
池田室長が、豊中方面の拠点であった矢追久子宅を訪れた時、そこに居あわせたのが、峰山益子だった。
阪急電鉄の創業者・小林一三ゆかりの図喜館「池田文庫」に勤めていた。
「御書を持っていますか」
室長がたずねた。
「あ、いえ」
「何万冊もの本に囲まれて御書がないなんて」
ため息をついた室長は、御書を学ぶ大切さを説いてから、すらすらと便せんに万年筆を走らせた。
月光の如く
尊き乙女して
永久の功徳を
強く受けきれ
峰山は、仰天した。がみがみ叱る幹部はいても、即興の和歌を贈ってくれる人がいるだろうか。
すぐさま御書を購入すると、第六期の教学部員候補に手を挙げた。誰もが室長の講義を聞きたがった。
心をつかむユーモア
ある日の講義。
室長が会場に入った後で、だらだら青年部の幹部が遅れて現れた。まったく求道心が感じられない。
ちらっと視線を向けるや、火を噴くような声を放った。
「その態度は何ごとだ!」
幹部たちは立ちすくんだ。
「本日、私は師匠である戸田先生に代わって講義を担当させていただいている。そういう決意でのぞんでいる。
であるならば、真剣さを欠くとは、もってのほかだ」
それから、ゆっくり正面に向き直ると、すっかり怒気は消えている。
「これは幹部に言っているんです。あなたたちにではありません」
受講者の博多洋二は、その気迫に圧倒された。頭では分かったつもりだったが、師弟という間柄の厳しさを初めて思い知らされた。
村田只四にも、忘れがたい思い出がある。
御書を講義していると、その会場に室長が入ってきた。席を譲ろうとしたが「そのまま続けて」。
視界に入る位置から、厳しい表情で村田を見つめている。いい加減なことは言えない。背中に冷や汗を流しながら、全魂をこめて話した。
終わってから室長が村田に言った。
「御書講義は戸田先生の名代として行うものです。私はいつも戸田先生が、そばにいらっしゃると思って講義をしています。きょうのように、私がいつも見ていると思って全力でやりなさい」
室長の講義には、確信があり、聴いていて力がわく。
まだまだ、そのほかにも、関西で受け入れられ、慕われる理由がないか。取材班が考えながら大阪を歩いた。
大阪環状線で、向かいの乗客が「大阪スポーツ」いわゆる"大スポ"を広げている。
超低空でUFOを発見という記事を、そばの小学生がネタにしている。
「まじ、すげえ。民家の上空に出現やって」
「あほか、こんなん、はったりに決まってるやんけ」
ボケとツッコミの分担が自然とできている。大阪は「お笑い文化」の発信地である。面白いか、面白くないか。この尺度は、やはり大きい。
ある証言。戸田会長は講義で、こんな話をしたという。
「私が大阪に来るのは貧乏人と病人をなくしたいからだ。今は貧乏でも心配するな。そのうち聖徳太子(当時の千円札)がオイッチニー、オイッチニーと行列を作って家に入ってくるぞ」
聖徳太子が行列......爆笑が会場を包んだことは言うまでもない。
池田室長が生野区の座談会に入った時のことである。
かつて革新政党の幹部だった男が参加していた。今は魚を行商していたが、フライドの高さがにじみ出ていた。
室長は、その壮年に語りかけた。
「この信心で必ず願いは叶います。叶わなければ、この池田の首をあげる」
そう言ったあと「あっ、あなたは魚屋さんだから、私の首をあげても、アラにもならんだろうね」。
しかめっ面をしていた魚屋がぶっと吹き出した。あとは話が早い。その場で、入会を決めた。
また池田室長はよく、にわか大阪弁を使った。
「お元気でっか」「もうかってまっか」
何ともいえない親しみがあり、相手のハートをつかむのである。
室長のユーモア精神は、東京の創価学会の幹部の中では極めて珍しかった。
東京には室長の先輩格の幹部が数多くいる。
石田次男。威張っていた。
戸田会長の話を聞いても、「ほう、ほう」と相づちを打つ。不遜な態度だった。後輩と食事に行くと「僕くらいになると、少欲知足で、食欲もないんだよなあ」と、すかしていた。
石田の妻も、よく似ていた。「戸田先生のおっしゃっていたこと、ここが違うのよね」と平気で口にした。
竜年光。まるで相手をなじり倒すように話すのが特徴だった。
当時の会員らの回想。
「あまりに狂気じみていて、まともに目を見ることができなかった」
「いつも会合に、怒鳴られに行くようなもんだった。信仰というのは怒鳴られるものなんだと思っていた」
石田や竜だけではない。ほとんどの幹部が号令をかけてばかりいた。自分では動かない。そのくせ後輩の失敗や欠点ばかりをあげつらい、罵倒した。
東京から大阪へ派遣される幹部も、似たり寄ったりである。入会して日の浅い大阪の会員を、どこか小バカにしたような臭みがあった。
同じ目線で語りかけるのは池田室長一人だった。