【第15回】 大阪の戦い 3 2009-1-30

関西で立ち上がれ! あらゆる企業・団体もしのぎを削った

学会が躍進する急所だった



世界へ通じる大拠点



 昭和二十年代の後半、企業や団体が戦後の復興を終え、地方への進出をはかった。

 しかし、東京から大阪へ伸びようとして成功した例は少ない。

 経済界では、住友や松下など地元はえぬきが地歩を固め、大阪では強かった。かたくなに東京勢を拒んでいた。

 宗教界では天理教。「東の立正佼成会、西の天理」と呼ばれた時代である。

 昭和二十六年(一九五一年)に戸田城聖第二代会長が誕生するまで、創価学会は東京を中心とする教団にすぎなかった。全国の会員も、首都圏十二支部のいずれかに所属している。地方への指導はまだ手薄だった。

 関西がカギだった。ここを押さえれば、全国への展開は大きく開かれる。

 日本だけではない。戸田会長は若き日から、関西こそ世界へ通じる大拠点であると考えていた。

 十八歳の日記。

 「我れ志を抱く、これ世界的たらんとす」「よろしく座を阪神とすべし(中略)天下の形勢に通ぜん」

 世界に飛翔するためには、まず関西で勝ち上がっていくしかない。あらゆる企業や団体が、ここで、しのぎを削っていた。

 昭和三十一年、学会として初の参院選の支援にあたり、戸田会長があえて大阪に候補を立てたのは、そうした厚い壁に切り込んでいくためだった。だからこそ、青年部の池田大作室長を大阪の責任者にしたのである。

 候補者は、四人の全国区のはか、地方区は東京の相原ヤス、大阪の白木義一郎の二人だった。

 当時、東京の会員は九万世帯を優に超え、大阪の会員数は三万世帯にすぎない。完全な「東高西低」である。

 当選ラインは二十万票といわれる。大阪の敗戦は必至だった。

 しかし、あえて戸田会長は愛弟子を千尋の谷に突き落とした。



 昭和三十一年一月四日水曜日の夕刻である。

 二十八歳の池田室長は天王寺区の関西本部に初めて足を踏み入れた。

 前年の暮れに古い音楽学校を改装した建物だが、まだ所々、ガラス窓は破れ、扉は閉まらない。天井には雨漏りのあとが染みていた。

 当時の庶民の生活といえば、憲法二十五条に保障された「健康で文化的な最低限度」どころか、ぎりぎり以下の生活だったといってよい。

 関西本部の周辺にも、靴どろばうが出没した。新しい靴が盗まれる。若手職員に下足箱を見張る職務があった。

 当時の社会の一断面だが、日雇い労働者は梅雨時、仕事が減る。暴動でパチンコ店が襲われないよう、警察が頼みこんだこともあるという。「治安のためや。釘をゆるめてくれへんか」

 簡易旅館では、宿代を踏み倒すため、共謀した二人で大げんか。一人が逃げる。「待て!」。追いかけたまま二人とも行方をくらます。

 時折、どこからか逃げてきた者が座談会場に飛び込んできた。こわもての若い衆が追いかけてくる。そこへ会場の隅からドスのきいた声。

 「ここは、お前らの来るとことちゃう。はよ去ね!」

 若い衆は立ち去った。裏社会から足を洗った男まで座談会にいた時代だった。

 きれいごとだけでは済まない。清もあれば濁もある。昭和三十一年、そんな庶民の世界へ池田室長は飛び込む。



 夜行列車で大阪駅



 まだ底冷えのする時期のことである。早朝、大阪駅のプラットホームに夜行列車が滑り込んだ。

 池田室長は薄明の大通りを天神橋筋六丁目方向へ歩いた。市電の中崎町の停留所を過ぎ、シャッターの閉まった靴屋の角を左に曲がる。

 畳屋の戸をたたいた。

 「おはようございます」

 班担当員の井西はなが顔を出した。

 「こんな早うから、寒うおましたでしょ。どうぞ、お入りください」

 い草のにおいが漂っている。畳店の土間を抜け、奥の部屋へ通された。二階は大阪支部の拠点になっている。

 井西は、あわてて裏の八百屋に走り、酒粕を買った。得意の甘酒をこしらえる。

 ほかほかに温めた甘酒を出す。室長の冷えきった身体にしみこんだ。

 東京──大阪の往復は、夜行列車が多く利用された。

 たとえば五月には、こんな強行スケジュールを強いられたこともあった。

 五月一日。豊島公会堂での本部幹部会に出席し、終了後、夜行列車で大阪へ。

 二日。阿倍野地区の決起大会に出席し、夜行列車でとんぼ返り。車中、徹夜で原稿を書く。

 三日。本部総会で渉外部長として登壇する。

 四日。東京での仕事を片づけ、長期滞在の支度をととのえて夜行列車に飛び乗った。

 片道十時間以上かかる。夜行での往復は、室長の体力をひどく消耗させた。

 室長の行動をつぶさに見ている大阪の会員たちは、なにがなんでも勝とうという気持ちになった。

 マラソン選手が全力で走るのを見て、無条件に声援を送りたくなるのと似ている。



 年頭から折伏は上げ潮の勢いである。大阪の会員数は飛躍的に増えていった。

 連日、関西本部では、会員カードの整理のため、夜遅くまで人が残っていた。池田室長は、彼らに語った。

 「谷間に咲いている白ゆりは、人が見ていようが見ていなかろうが、時が来れば美しく咲き、よい香りを放っています」

 暖房もない部屋で、ちちかむ手をこすりながら作業してきたメンバーである。

 「美しい花は、山野の嵐や雨と戦い抜いて勝ち取った姿です。誰も見ていないかもしれませんが、時が来れば必ず大きな功徳が出ます」

 作業部屋には、室長から何度も出前のラーメンなどが届いた。



 四月八日、豪雨の大阪球場に二万人が結集した。大阪・堺支部連合総会。

 京都の舞鶴から乗りこんだ一団があった。大型バス二台。班長が総勢百二十人を率いてきた。

 経済の復興は都市部から進むため、地方の農村部は取り残されていた。

 土砂降りの雨をついて決行された総会で戸田会長は叫ぶ。「大阪から貧乏人を絶対なくしたい」。班長は目頭を熱くした。

 しかし、参加者はずぶ濡れである。歩くたびに長靴の中がゴボッゴボッと鳴る。バスに戻っても、がくがくと震え、総会での歓喜も消えてしまいそうだ。

 関西本部へバスを向けた。管理人に頼み、三階の仏間へ。濡れた衣服のまま座るので、たたみに水が染みこんでいく。

 その時、班長は思いついた。そうや、このまま隣の応接間で待っとれば、戸田先生に会えるんやないか......。

 こっそりと応接間に忍び込む。入れるだけの人数を詰め込んだ。

 静かに待つこと二十分。

 ついに扉が開き、班長が口を開こうとした瞬間である。

 「誰だ!」

 ぬれねずみの集団を見て、会長は驚いた。

 かろうじて「舞鶴から来ました」と答えた。

 「そうか、それは、よく来た。せっかくだから懇談してあげよう」

 四十分余り、懇切に指導をおこなった。「もういいだろう。おれは先に行くから、あとは頼むぞ」。池田室長にバトンを託し、奥に消えた。

 何もかも信頼し、まかせた様子である。

 「戸田先生は世界に二人とない大指導者です。私は若輩ですが、どこまでも戸田先生についていきます。皆さんも、どんなことがあっても、信心から離れず、戸田先生についていきなさい」

 これが師弟というものか。舞鶴の会員は初めて目の当たりにした。

 別の折、関西本部でこんな場面があった。

 室長が指導していると、電話が鳴った。東京の戸田会長から連絡のある時間だった。

 その瞬間、室長は機敏な動作で、腕まくりしていたワイシャツの袖を伸ばす。背広を着て、ボタンも留める。きちんと正座してから、受話器を取った。

 厳粛な姿だった。

       

時代と背景

 昭和31年1月4日、特急「つばめ」で来阪した池田室長は「大法興隆所願成就」と脇書された関西本部の御本尊に勤行。「戦いは勝った!」と師子吼する。翌日の地区部長会。自ら「黒田節」を舞い、参加者にも踊らせた。楽しく、にぎやかに戦いゆくことを教えたが、日記には「痛烈なる、全力を尽くした指導をなす」と。すべては一念に億劫の辛労を尽くしての指揮だった。