【第16回】 大阪の戦い 4 2009-1-31
団結あるところ勝利あり!
池田室長を先頭に関西の快進撃が始まった
ジュース工場の拠点
関西での池田大作室長の行動は、昭和三十一年五月に入ると、さらに加速する。
大淀区(現・北区の一部)で「日栄ジュース」を製造する小谷鉱泉所。小谷栄一・ふみ夫妻が営んでいた。
五月十日の夕方、瓶詰めの機械音がやんだ。もうすぐ隣接する二階の会場で、池田室長を迎え、班長・班担当員会がはじまる。
室長は行く先々で、人智を超えたような、いわゆる神懸かり的な振る舞いをしたわけでは全くない。
むしろ皆が一緒になって、横一線で動く楽しさを、身をもって示し、教えた。
この日も、小谷宅を訪れ、事務所脇の階段を上がろうとした時である。
電話が鳴った。すかさず室長が手を伸ばす。
「はい、小谷鉱泉所です。......はい、はい......」
そのまま会場に姿を見せ、小谷の妻に語りかけた。
「今、注文の電話を受けてきたよ」
「あらま、すんまへん」
爆笑。いかにも大阪のおばちゃんらしい返事に、緊張していた雰囲気が、がらりと変わった。
商品名も知らないはずなのに、日栄マークのサイダーに、ラムネ、ミカン水などケースごとに的確に注文を取ってくれていた。
小谷夫妻は恐縮した。
「じゃあ、せっかくだから、みんなにサイダーをもらえるかな」
室長はポケットマネーで振る舞った。あいにく冷えたものがない。常温のサイダーが配られた。ボンと栓を抜くと、泡が吹き出す。
笑い声が絶えない。
「信心だけは絶対に負けてはいけません。仏法は勝負です。題目をあげて、あげて、あげ抜きなさい。信心の団結あるところ、必ず勝利があります」
和気あいあいとした一体感があるから、指導がスッと胸に入る。
港区築港。
外国人の船員や港湾労働者が、ひしめいている。ここで田内喜郎、富士子夫妻がレストランを開き、拠点になっていた。池田室長が昼食を兼ねて立ち寄った。特製のカツカレーを「おいしい」とペロッと平らげた。カレーが大好物である。
大きな模造紙と筆が用意された。室長は腕まくりをして力強い筆さばきで「大勝」と認めた。
池田室長が転戦すると、向かうところ敵なしの勢いで折伏が決まっていく。しかし、世間によくある宗教の勧誘や説明の類ではない。
堂々としていた。
ある時、関西本部で、その心構えを指導している。
「この信心は絶対です。どれほど社会的な地位があっても、名誉があっても、御本尊を拝する信仰者には、かないません!」
気迫に満ちた言葉だった。
「もし信心していない人に『信心してください』と頭を下げて頼むような人が、大阪に一人でもいてはいけません! もし、そんな組織があれば、担当の幹部は責任を取って辞めてもらってもいいほどです。いいですか!」
この勇気、この確信が電流のように大阪中に流れていったのである。
折伏の火の手は西日本一円にも及んでいく。週末になると、大阪港から船にも乗った。四国、中国、九州へ戦線を広げる。
それまで社会の荒波の中で打ちひしがれ、意気地なしのようにおどおど下を向いていた者まで、人間として、信仰者としての誇りに目覚めたのである。
嵐に負けない水の信心
快進撃した大阪支部は五月、一万一千百十一世帯の弘教を成し遂げた。破竹の勢いは止まらない。
六月五日火曜日、大東市の朋来住宅に、池田室長が入ってきた。
「室長がお見えになったら一筆お願いするよう、だんなに言われまして」
その家の妻が大きな模造紙を広げている。
「うーん、紙も筆もよくないなぁ」
ユーモアをまじえながら墨に筆をひたした。
今日は何日ですか、と聞き六月五日と確認する。
「牧口先生のお誕生日の前日だね」と口にしてから、紙の上で身をかがめた。
「信心は水の如く」と大書した。
「水の和き信心って分かるかい?」
まだ墨が光っている紙を指さしながら言った。
「平らな川の水の流れではない。嵐の中の怒涛が大きな岩にぶちあたり、その岩を乗り越えていくような信心だ。
難を乗り越える信心をしていきなさい」
まさに法難と戦った牧口初代会長の魂そのものだった。室長は皆をうながすように、パンと手をたたいた。
「さあ、勇気を出して、出かけましょう!」
歯切れのいい言葉に、だれもが玄関から飛び出した。
六月十二日の火曜日、参院選が公示された。
遊説が始まり、各所で演説会がスタートした。
平日は毎晩、演説会が開かれた。男子部、女子部の代表も「青年代表」の肩書でマイクを握った。池田室長は「大蔵商事営業部長」として応援演説に立った。
河内市(現・東大阪市の一部)では、各会場を立て続けに回った。
国鉄の鴻池新田駅に近い会場。室長の話は理路整然としている。「あの人は若いのに大したものだ。立派だ」。有権者は候補者よりも室長をほめていた。
花園方面の会場。先回りした室長がつぶやいた。
「よく集めてくれたけれど、未だ少ないな......」
それを聞いていた宇田荘太郎は、言葉尻をとらえ、かっとなった。
「少ないとはどういうことや。このへんは、みんな農家で遅いんや」
もの凄い剣幕である。
二千人の部下を率いた元軍人。地元の有力者で、選挙戦にも持論があった。
入会九カ月。まだ池田室長の存在を知らない。翌日になっても腹の虫が収まらない。妻に言った。
「戸田という会長におうて来る。昨日のこと、ゆうたろう思うて」
関西本部で戸田会長を呼んだ。出てきたのは室長である。ちょうどいい。
「昨日、結集が少ないって、あれはなんや。河内の選挙は、河内にまかせてもらわな困る」
室長は、ほほ笑んだ。
「わかりました。では、あなたにおまかせしましょう」
きっぱりと言われ、かえって宇田は拍子抜けした。
それ以上に、びくっとしたことがある。
笑っているはずなのに、その眼光には、野戦の指揮官のような凄みがあった。
河内の自宅に帰るなり、家人に告げた。
「昨日は暗うて分からんかったけど、あの目を見たら分かる。あんなに、すごい目をした男は軍隊にもおらんかった。間違いない。ものすごい人やで」
西本茂が一年間だけやってみるという約束で入会したのは、六月中旬だった。しかし困った点がある。西本は労働組合の幹部だった。
参院選でも他党の候補を組合あげて応援していた。学会と労組の板ばさみ。
関西本部へ指導を受けにいった。
「あれが池田室長やで」
先輩に言われた西本は、労働阻合のお偉方の顔と室長を比べた。
若い。目が濁っていない。組合のトップが古狸のように思える。
西本は室長に事情を打ち明けた。それでも学会は組合のように、きっと締めつけてくるだろう。それが選挙というものだ。
意外な答えが返ってきた。
「そうですか。選挙活動は自由です。ご自分でお決めください。どうか後悔のない活動をしてください」
西本は絶句した。懐が深い。この人と一緒に戦おう。逆に腹を決め、これまで他党でかためた所をもう一度、回った。
白木を頼む。お好み焼きのように引っくり返した。
「いったい、どないしたんや」
いぶかしがる相手を熱心に口説いた。利害ではない。信頼できるから推す。
同じ一票を頼むのに、こんな違いがあるのか。義務的にやらされた選挙とは、まったく異なる充実感があった。
(続く)
時代と背景
昭和31年5月15日、新聞の朝刊に「"暴力宗教"創価学会」という見出しが出た。大阪支部の学会員6人が、大阪府警に不当逮捕される。その当日の朝刊に記事が掲載され、学会の快進撃をねたむ意図的な弾圧であることは明らかだった。
池田室長は「電光石火」と揮毫し、動揺する会員を渾身で激励する。障魔を乗り越え、大阪の団結は一段と強固なものとなった。
池田室長を先頭に関西の快進撃が始まった
ジュース工場の拠点
関西での池田大作室長の行動は、昭和三十一年五月に入ると、さらに加速する。
大淀区(現・北区の一部)で「日栄ジュース」を製造する小谷鉱泉所。小谷栄一・ふみ夫妻が営んでいた。
五月十日の夕方、瓶詰めの機械音がやんだ。もうすぐ隣接する二階の会場で、池田室長を迎え、班長・班担当員会がはじまる。
室長は行く先々で、人智を超えたような、いわゆる神懸かり的な振る舞いをしたわけでは全くない。
むしろ皆が一緒になって、横一線で動く楽しさを、身をもって示し、教えた。
この日も、小谷宅を訪れ、事務所脇の階段を上がろうとした時である。
電話が鳴った。すかさず室長が手を伸ばす。
「はい、小谷鉱泉所です。......はい、はい......」
そのまま会場に姿を見せ、小谷の妻に語りかけた。
「今、注文の電話を受けてきたよ」
「あらま、すんまへん」
爆笑。いかにも大阪のおばちゃんらしい返事に、緊張していた雰囲気が、がらりと変わった。
商品名も知らないはずなのに、日栄マークのサイダーに、ラムネ、ミカン水などケースごとに的確に注文を取ってくれていた。
小谷夫妻は恐縮した。
「じゃあ、せっかくだから、みんなにサイダーをもらえるかな」
室長はポケットマネーで振る舞った。あいにく冷えたものがない。常温のサイダーが配られた。ボンと栓を抜くと、泡が吹き出す。
笑い声が絶えない。
「信心だけは絶対に負けてはいけません。仏法は勝負です。題目をあげて、あげて、あげ抜きなさい。信心の団結あるところ、必ず勝利があります」
和気あいあいとした一体感があるから、指導がスッと胸に入る。
港区築港。
外国人の船員や港湾労働者が、ひしめいている。ここで田内喜郎、富士子夫妻がレストランを開き、拠点になっていた。池田室長が昼食を兼ねて立ち寄った。特製のカツカレーを「おいしい」とペロッと平らげた。カレーが大好物である。
大きな模造紙と筆が用意された。室長は腕まくりをして力強い筆さばきで「大勝」と認めた。
池田室長が転戦すると、向かうところ敵なしの勢いで折伏が決まっていく。しかし、世間によくある宗教の勧誘や説明の類ではない。
堂々としていた。
ある時、関西本部で、その心構えを指導している。
「この信心は絶対です。どれほど社会的な地位があっても、名誉があっても、御本尊を拝する信仰者には、かないません!」
気迫に満ちた言葉だった。
「もし信心していない人に『信心してください』と頭を下げて頼むような人が、大阪に一人でもいてはいけません! もし、そんな組織があれば、担当の幹部は責任を取って辞めてもらってもいいほどです。いいですか!」
この勇気、この確信が電流のように大阪中に流れていったのである。
折伏の火の手は西日本一円にも及んでいく。週末になると、大阪港から船にも乗った。四国、中国、九州へ戦線を広げる。
それまで社会の荒波の中で打ちひしがれ、意気地なしのようにおどおど下を向いていた者まで、人間として、信仰者としての誇りに目覚めたのである。
嵐に負けない水の信心
快進撃した大阪支部は五月、一万一千百十一世帯の弘教を成し遂げた。破竹の勢いは止まらない。
六月五日火曜日、大東市の朋来住宅に、池田室長が入ってきた。
「室長がお見えになったら一筆お願いするよう、だんなに言われまして」
その家の妻が大きな模造紙を広げている。
「うーん、紙も筆もよくないなぁ」
ユーモアをまじえながら墨に筆をひたした。
今日は何日ですか、と聞き六月五日と確認する。
「牧口先生のお誕生日の前日だね」と口にしてから、紙の上で身をかがめた。
「信心は水の如く」と大書した。
「水の和き信心って分かるかい?」
まだ墨が光っている紙を指さしながら言った。
「平らな川の水の流れではない。嵐の中の怒涛が大きな岩にぶちあたり、その岩を乗り越えていくような信心だ。
難を乗り越える信心をしていきなさい」
まさに法難と戦った牧口初代会長の魂そのものだった。室長は皆をうながすように、パンと手をたたいた。
「さあ、勇気を出して、出かけましょう!」
歯切れのいい言葉に、だれもが玄関から飛び出した。
六月十二日の火曜日、参院選が公示された。
遊説が始まり、各所で演説会がスタートした。
平日は毎晩、演説会が開かれた。男子部、女子部の代表も「青年代表」の肩書でマイクを握った。池田室長は「大蔵商事営業部長」として応援演説に立った。
河内市(現・東大阪市の一部)では、各会場を立て続けに回った。
国鉄の鴻池新田駅に近い会場。室長の話は理路整然としている。「あの人は若いのに大したものだ。立派だ」。有権者は候補者よりも室長をほめていた。
花園方面の会場。先回りした室長がつぶやいた。
「よく集めてくれたけれど、未だ少ないな......」
それを聞いていた宇田荘太郎は、言葉尻をとらえ、かっとなった。
「少ないとはどういうことや。このへんは、みんな農家で遅いんや」
もの凄い剣幕である。
二千人の部下を率いた元軍人。地元の有力者で、選挙戦にも持論があった。
入会九カ月。まだ池田室長の存在を知らない。翌日になっても腹の虫が収まらない。妻に言った。
「戸田という会長におうて来る。昨日のこと、ゆうたろう思うて」
関西本部で戸田会長を呼んだ。出てきたのは室長である。ちょうどいい。
「昨日、結集が少ないって、あれはなんや。河内の選挙は、河内にまかせてもらわな困る」
室長は、ほほ笑んだ。
「わかりました。では、あなたにおまかせしましょう」
きっぱりと言われ、かえって宇田は拍子抜けした。
それ以上に、びくっとしたことがある。
笑っているはずなのに、その眼光には、野戦の指揮官のような凄みがあった。
河内の自宅に帰るなり、家人に告げた。
「昨日は暗うて分からんかったけど、あの目を見たら分かる。あんなに、すごい目をした男は軍隊にもおらんかった。間違いない。ものすごい人やで」
西本茂が一年間だけやってみるという約束で入会したのは、六月中旬だった。しかし困った点がある。西本は労働組合の幹部だった。
参院選でも他党の候補を組合あげて応援していた。学会と労組の板ばさみ。
関西本部へ指導を受けにいった。
「あれが池田室長やで」
先輩に言われた西本は、労働阻合のお偉方の顔と室長を比べた。
若い。目が濁っていない。組合のトップが古狸のように思える。
西本は室長に事情を打ち明けた。それでも学会は組合のように、きっと締めつけてくるだろう。それが選挙というものだ。
意外な答えが返ってきた。
「そうですか。選挙活動は自由です。ご自分でお決めください。どうか後悔のない活動をしてください」
西本は絶句した。懐が深い。この人と一緒に戦おう。逆に腹を決め、これまで他党でかためた所をもう一度、回った。
白木を頼む。お好み焼きのように引っくり返した。
「いったい、どないしたんや」
いぶかしがる相手を熱心に口説いた。利害ではない。信頼できるから推す。
同じ一票を頼むのに、こんな違いがあるのか。義務的にやらされた選挙とは、まったく異なる充実感があった。
(続く)
時代と背景
昭和31年5月15日、新聞の朝刊に「"暴力宗教"創価学会」という見出しが出た。大阪支部の学会員6人が、大阪府警に不当逮捕される。その当日の朝刊に記事が掲載され、学会の快進撃をねたむ意図的な弾圧であることは明らかだった。
池田室長は「電光石火」と揮毫し、動揺する会員を渾身で激励する。障魔を乗り越え、大阪の団結は一段と強固なものとなった。