【第17回】 大阪の戦い 5 2009-2-3
きょうは これで 二十四ヵ所目だ
関西の友がいるところどこまでも走った
鬼神も泣かむ闘争
大阪市西成区に坂本堅という大工がいた。
昭和三十一年(一九五六年)六月、関西本部で青年部の責任者会に参加した。
各区から順調な報告が続く。坂本のところは他の半分あるかないかである。順番がきて立ち上がり「地区の班長もしてますんで......」と言葉をにごした。
要するに青年部だけでなく、地区の立場もあるので大変だと弁解したのである。
「それならば、班長の資格はない!」
池田大作室長の大喝が響いた。周りから「三階の広間が揺れたで」と言われたぐらいの迫力だった。
「やらせてください!」。食い下がった。
「だめだ!」
やりとりは、五、六回も続いた。
室長は数字が伸び悩んでいることを叱ったのではない。青年らしくない、ごまかし、言い訳、逃げの姿勢。その心底を戒めたかったのである。
坂本は、その場に座り込み、おろおろするうちに会合が終わってしまった。
中央の通路を退場していく室長の前に飛び出す。もう一度「やらせてください!」。頭を下げた。
坂本の表情に変化を見て取ったのか「ついてきなさい」と短く言った。
広間を出て、廊下をへだてた応接室へ。「座りなさい」。池田室長に促された坂本は身を縮めた。ああ、またタコ釣られる......。
生まれ故郷の香川県・小豆島の言葉で、叱られるという意味だ。
ところが池田室長は何も言わない。手に持った白扇を広げて、さらさらと筆で何か書き「これを持って頑張りなさい。今の君ならできます!」と渡した。
「鬼神も泣かむ 斗争たらんことを 君の健斗を祈る」
坂本は扇子を手に、西成じゆうを駆け回った。
「大阪の戦い」では広い府内を五つの管区にした。大阪市内を、北と南に二分する。
それ以外を、三管区に分割した。いわゆる「北摂・北河内」「中・南河内」「堺・和泉」の三つである。
この三管区は、それぞれ豊中市、布施市(東大阪市の一部)、堺市が中心である。
室長は、ここにも力を入れた。大阪の周辺部から勢いをつける。
序盤戦、豊中南部で活動する出口清一。厳しい現状をぽやいた。
「明日、行ってあげよう」
室長は、バイクの後ろにまたがり、十数キロ。野菜や魚の安売りでごった返す豊南市場を通り過ぎる。阪急・庄内駅近くの拠点に着いた。
会えたのは、たった三人。しかし、目の前にいる三人に全魂を傾けた。
後日、豊中駅前の拠点にも現れた。「ごめんやす」。大阪弁に、どっとわく。
米軍の伊丹エアベース(航空基地)も近く、飛行機の爆音の下で奔走してきた同志である。
室長の髪は、さっぱりと刈り上げられていた。駅前の床屋に入り、主人と対話してきたばかりだった。
関西本部で目ざとく枚方市の会員数人を見つけたこともある。筆をとり「大斗争」と一気にしたためた。
「校方の皆さんへ、おみやげです。お元気で!」
枚方のある京阪沿線は、松下やダイエーが事業を伸ばす足がかりとなる。室長も、いずれこの方面が学会の一大拠点になると信じていた。
戸田会長の応援
堺市を回っている室長と地区担当員の江草ミドリが合流した。海沿いの高石町(現。高石市)へ向かう日だった。
室長は、しきりに肩の凝りをほぐすように首を回した。
「たしか、きょうはこれで二十四カ所目だよ」
江草は言葉を失った。
"どないしよ......"
初めの予定より、さらに行き先を追加している。どこもかしこも、拠点で室長を待ちわびていた。
室長はすべて回ってくれ、倒れ込むようにして、たどり着いた拠点もあった。
それでも、ある会場で懇談中に、鳥の声に気づく。裏庭に小鳥小屋があった。
「誰が飼っているの」
その家の息子が飼っていたが、しつかり信心ができていないため、母親が申し訳なさそうにしている。
「楽しそうに飼っているなあ。優しくて、いい子じゃないか」。室長から伝言が託された。
信心もせんと鳥ばかり大事にしよって、と思っていた母の見方が変わった。やがて息子も信心を始めた。
布施市の立花仁六は、かつて陸軍の伍長だった。
関西本部で質問会になると、真っ先に手を挙げる。
小柄で、ひょうきん。室長も、彼のとんちんかんな質問に誠実に答えた。
旧・国道三〇八号線を入ってすぐの所に、立花のプレス工場があった。
東大阪の一帯は、小さな町工場が多い。室長が生まれ育った東京・大田と似ている。戦時中、蒲田の鉄工所で働いたこともあった。
布施市の公設市場では、集会所を借りて、よく座談会が開かれた。五月のある日、ここに室長が入った。
新来者が七人いた。真言、念仏、天理教。
「私は、宗教の正邪を仏法哲理の上から申し上げている!」
確信を込めて語る。
真言と念仏は入会を希望した。天理教だけ迷っている。家族がらみの事情があった。あえて問い詰めない。
「きょうは家族とよく相談して、また来てください」
どこまでも常識ゆたかな言動である。天理教は驚いた。世間で言われる"暴力宗教"と違うじゃないか!
六月、布施の商店街に、大きな懸垂幕が掲げられた。
「創価学会会長 戸田城聖来る 六月二十七日 公設市場二階」
午後一時。炎天下で演説会は始まった。公設市場の駐車場に八百人が押しよせた。
ふだんは二階の室内エリアで集会を開くが、室長は「いや、入りきらない。ものすごい勢いで集まってくるよ」。
計算どおりである。
万全な態勢で師を迎えるため、前日には、入念に下見をしてあった。
大変な人込みとなり、役員が汗をぽたぽた流しながら動いている。池田室長は一人の青年に目をとめた。歩み寄ると、両手で彼の右手をすくい上げた。
「痛かったろうな」
数本の指が欠けている。仕事場の事故で切り落としていた。青年は驚く。こんなに刻一刻をあらそう現場で指先を見てくれていたとは......。
零細工場の町には、ケガをしても働き続ける孤独な若者も多かった。
池田室長は多忙を極めた。関西本部では靴の踵を入れる間も惜しんで、草履を履いて飛び回ったこともある。
ゆっくり食事する時間もない。関西本部の筋向かいにある「とみや食堂」から出前を取った。
鉄板でキャベツ、豚肉をじゅうじゅう炒め、上に紅ショウガを散らしたヤキソバで腹ごしらえをした。
婦人部も歩きに歩いた。
仙頭辰子は毎日、弁当をさげて家を飛び出し、白木を支援した。
ある日のこと。「あなたも白木さんでっか。もう四人目でっせ」と言われた。
「初めは、何かゆうてはるなあと思った。二度目は、さっきと同じ名前やと聞き流したけど、三人目に、どんな人やろうと思ったんや。
今度はあんたから聞かされた。それほど信頼されている人やったら、私も白木さんを応援しまっせ」
二枚しかない仙頭の着物の裾は擦り切れた。桐の下駄も歯がすりへって、せんべいのようになった。
(続く)
時代と背景
「大阪の戦い」にのぞむ決意を和歌に託している。「関西に 今築きゆく 鏑州城 永遠に崩すな魔軍抑えて」。西日本の要衝となる関西を、水滸会や戸田大学で折々に学んだ古代中国の難攻不落の城郭(現在の遼寧省南西部)にたとえた。
返歌は「我が弟子が 折伏行で 築きたる 錦州城を 仰ぐうれしさ」。恩師の目は、勝利の城のいただきを確かにとらえていた。
関西の友がいるところどこまでも走った
鬼神も泣かむ闘争
大阪市西成区に坂本堅という大工がいた。
昭和三十一年(一九五六年)六月、関西本部で青年部の責任者会に参加した。
各区から順調な報告が続く。坂本のところは他の半分あるかないかである。順番がきて立ち上がり「地区の班長もしてますんで......」と言葉をにごした。
要するに青年部だけでなく、地区の立場もあるので大変だと弁解したのである。
「それならば、班長の資格はない!」
池田大作室長の大喝が響いた。周りから「三階の広間が揺れたで」と言われたぐらいの迫力だった。
「やらせてください!」。食い下がった。
「だめだ!」
やりとりは、五、六回も続いた。
室長は数字が伸び悩んでいることを叱ったのではない。青年らしくない、ごまかし、言い訳、逃げの姿勢。その心底を戒めたかったのである。
坂本は、その場に座り込み、おろおろするうちに会合が終わってしまった。
中央の通路を退場していく室長の前に飛び出す。もう一度「やらせてください!」。頭を下げた。
坂本の表情に変化を見て取ったのか「ついてきなさい」と短く言った。
広間を出て、廊下をへだてた応接室へ。「座りなさい」。池田室長に促された坂本は身を縮めた。ああ、またタコ釣られる......。
生まれ故郷の香川県・小豆島の言葉で、叱られるという意味だ。
ところが池田室長は何も言わない。手に持った白扇を広げて、さらさらと筆で何か書き「これを持って頑張りなさい。今の君ならできます!」と渡した。
「鬼神も泣かむ 斗争たらんことを 君の健斗を祈る」
坂本は扇子を手に、西成じゆうを駆け回った。
「大阪の戦い」では広い府内を五つの管区にした。大阪市内を、北と南に二分する。
それ以外を、三管区に分割した。いわゆる「北摂・北河内」「中・南河内」「堺・和泉」の三つである。
この三管区は、それぞれ豊中市、布施市(東大阪市の一部)、堺市が中心である。
室長は、ここにも力を入れた。大阪の周辺部から勢いをつける。
序盤戦、豊中南部で活動する出口清一。厳しい現状をぽやいた。
「明日、行ってあげよう」
室長は、バイクの後ろにまたがり、十数キロ。野菜や魚の安売りでごった返す豊南市場を通り過ぎる。阪急・庄内駅近くの拠点に着いた。
会えたのは、たった三人。しかし、目の前にいる三人に全魂を傾けた。
後日、豊中駅前の拠点にも現れた。「ごめんやす」。大阪弁に、どっとわく。
米軍の伊丹エアベース(航空基地)も近く、飛行機の爆音の下で奔走してきた同志である。
室長の髪は、さっぱりと刈り上げられていた。駅前の床屋に入り、主人と対話してきたばかりだった。
関西本部で目ざとく枚方市の会員数人を見つけたこともある。筆をとり「大斗争」と一気にしたためた。
「校方の皆さんへ、おみやげです。お元気で!」
枚方のある京阪沿線は、松下やダイエーが事業を伸ばす足がかりとなる。室長も、いずれこの方面が学会の一大拠点になると信じていた。
戸田会長の応援
堺市を回っている室長と地区担当員の江草ミドリが合流した。海沿いの高石町(現。高石市)へ向かう日だった。
室長は、しきりに肩の凝りをほぐすように首を回した。
「たしか、きょうはこれで二十四カ所目だよ」
江草は言葉を失った。
"どないしよ......"
初めの予定より、さらに行き先を追加している。どこもかしこも、拠点で室長を待ちわびていた。
室長はすべて回ってくれ、倒れ込むようにして、たどり着いた拠点もあった。
それでも、ある会場で懇談中に、鳥の声に気づく。裏庭に小鳥小屋があった。
「誰が飼っているの」
その家の息子が飼っていたが、しつかり信心ができていないため、母親が申し訳なさそうにしている。
「楽しそうに飼っているなあ。優しくて、いい子じゃないか」。室長から伝言が託された。
信心もせんと鳥ばかり大事にしよって、と思っていた母の見方が変わった。やがて息子も信心を始めた。
布施市の立花仁六は、かつて陸軍の伍長だった。
関西本部で質問会になると、真っ先に手を挙げる。
小柄で、ひょうきん。室長も、彼のとんちんかんな質問に誠実に答えた。
旧・国道三〇八号線を入ってすぐの所に、立花のプレス工場があった。
東大阪の一帯は、小さな町工場が多い。室長が生まれ育った東京・大田と似ている。戦時中、蒲田の鉄工所で働いたこともあった。
布施市の公設市場では、集会所を借りて、よく座談会が開かれた。五月のある日、ここに室長が入った。
新来者が七人いた。真言、念仏、天理教。
「私は、宗教の正邪を仏法哲理の上から申し上げている!」
確信を込めて語る。
真言と念仏は入会を希望した。天理教だけ迷っている。家族がらみの事情があった。あえて問い詰めない。
「きょうは家族とよく相談して、また来てください」
どこまでも常識ゆたかな言動である。天理教は驚いた。世間で言われる"暴力宗教"と違うじゃないか!
六月、布施の商店街に、大きな懸垂幕が掲げられた。
「創価学会会長 戸田城聖来る 六月二十七日 公設市場二階」
午後一時。炎天下で演説会は始まった。公設市場の駐車場に八百人が押しよせた。
ふだんは二階の室内エリアで集会を開くが、室長は「いや、入りきらない。ものすごい勢いで集まってくるよ」。
計算どおりである。
万全な態勢で師を迎えるため、前日には、入念に下見をしてあった。
大変な人込みとなり、役員が汗をぽたぽた流しながら動いている。池田室長は一人の青年に目をとめた。歩み寄ると、両手で彼の右手をすくい上げた。
「痛かったろうな」
数本の指が欠けている。仕事場の事故で切り落としていた。青年は驚く。こんなに刻一刻をあらそう現場で指先を見てくれていたとは......。
零細工場の町には、ケガをしても働き続ける孤独な若者も多かった。
池田室長は多忙を極めた。関西本部では靴の踵を入れる間も惜しんで、草履を履いて飛び回ったこともある。
ゆっくり食事する時間もない。関西本部の筋向かいにある「とみや食堂」から出前を取った。
鉄板でキャベツ、豚肉をじゅうじゅう炒め、上に紅ショウガを散らしたヤキソバで腹ごしらえをした。
婦人部も歩きに歩いた。
仙頭辰子は毎日、弁当をさげて家を飛び出し、白木を支援した。
ある日のこと。「あなたも白木さんでっか。もう四人目でっせ」と言われた。
「初めは、何かゆうてはるなあと思った。二度目は、さっきと同じ名前やと聞き流したけど、三人目に、どんな人やろうと思ったんや。
今度はあんたから聞かされた。それほど信頼されている人やったら、私も白木さんを応援しまっせ」
二枚しかない仙頭の着物の裾は擦り切れた。桐の下駄も歯がすりへって、せんべいのようになった。
(続く)
時代と背景
「大阪の戦い」にのぞむ決意を和歌に託している。「関西に 今築きゆく 鏑州城 永遠に崩すな魔軍抑えて」。西日本の要衝となる関西を、水滸会や戸田大学で折々に学んだ古代中国の難攻不落の城郭(現在の遼寧省南西部)にたとえた。
返歌は「我が弟子が 折伏行で 築きたる 錦州城を 仰ぐうれしさ」。恩師の目は、勝利の城のいただきを確かにとらえていた。