【第18回】 大阪の戦い 6 2009-2-4

池田先生に育てられた大恩を永遠に忘れない

これが常勝の原点となった



仕事と生活に勝て



 「大阪の戦い」も終盤。

 池田大作室長は外出から関西本部へ戻る途中、一軒の家に立ち寄った。

 以前から心配していた幹部の家である。どこか我流で、和を乱すことがあった。

 訪ねてみると、のんきに家でゆっくりしていた。室長は表情を曇らせた。

 「すみません。ちょっと、家の用事があって......」

 「分かります。用事があるのが当然です。しかし、みんな状況は同じです。時間を工夫し、団結して戦おうと努力しているのです」

 全軍をあげて前進しているさなかである。その土ぽこりに身を隠し、要領よく手を抜こうとする性根を厳しくただした。

 また、ある夜、関西本部で、男子部の幹部に声をかけた。「君は、きょう会合があったんじゃないのかい」

 彼は口ごもった。担当する組織の会合があったが、自分の"出番"はないから、休んでいた。

 組織にあぐらをかいてはいけない。魚も頭から腐る。

 「とんでもない! 大切な同志が集まっている。今すぐ行きなさい!」

 靴を手に、ほうほうの体で駆け出した。

 別の折。大阪駅に近い畳屋の井西宅に東京からの派遣幹部が集まった。

 打ち合わせを終えると、一人の青年を呼んだ。

 ギッと厳しく見据える。

 「ずっとこっちにいるね。仕事は、どうしたんだ」

 あれこれ言い訳をする。

 「手はキッチリと打っています」

 「ウソをつくな! 東京に帰って、ちゃんと仕事をしなさい」

 すべて見抜かれていた。

 「どうか、ここで戦わせてください」

 「ダメです。今すぐ帰りなさい!」

 その場に居合わせた大阪市北区の国重睦子は、胸が熱くなった。こんなに厳しい室長を見るのは、初めてである。

 たとえ白木が勝っても、自分自身が生活に負けてしまったら惨敗だ。

 いいかげんで、中途半端のまま、いてもらっては、士気を下げるだけである。

 室長は甘えを許さない。徹頭徹尾「自分に勝つ」ことを教えた。

 青年は東京に戻り、仕事を立て直してから、再び戦線に復帰。まるで別人のような動きを見せた。



 昭和三十一年(一九五六年)七月八日の日曜日。

 参議院選挙の投票日である。午後六時の投票締め切りを受け、立花仁六宅では集計に追われていた。

 ようやく報告を終わり、立花は住み込みの従業員たちと夕食をとり始めた。このところ忙しかったので、久しぶりの晩酌である。

 空きっ腹に冷たいビール。すぐに顔が真っ赤になった。

 と、その時である。「ごめんください」。聞き覚えのある声。池田室長が、白木義一郎や地区部長を連れてねぎらいにきてくれた。

 「おっ、前祝いかい?」

 妻の丸子があわてて片付けようとしたが、室長は「いいんだ、そのままで」。

 少し酔った勢いで立花が室長にビールを勧めると、コップを手にとってくれた。まったく飲めない室長である。一同は腰を抜かすはど驚いた。

 「みんな、本当にありがとう。勝たせてもらった。勝たせてもらったよ」

 立花は、きょとんとした。「あれ、室長、開票は明日でっせ。そんなん分かりまへんがな」

 室長の目は、自信に満ちていた。



 まさかが実現



 翌日、池田室長の言葉は現実となった。

 白木の得票数は、二一万八九一五票。

 次点に四万余の大差をつけ、第三位で当選した。世の中がアツと驚いた。

 朝日新聞では「"まさか"が実現」という見出しで報じられた。痛快な勝利である。一方、東京地方区。

 二〇万三六二三票を獲得したものの、残念ながら次点で敗れた。

 東京の総責任者は、石田次男だった。この敗北が戸田城聖会長の死期を早めたとする声もある。

 しかし、その一方で、戸田会長は未来への光明も見たにちがいない。

 なぜならば、室長は師から得たすべてを「大阪の戦い」でいかんなく発揮したからである。戸田大学や、水滸会で受けた指南が、勝利の兵法であったことを現実の上で証明した。

 東京の敗北に憤ったことは確かだが、それ以上の希望の光があった。



 大阪の勝利がもたらしたものは何か──

 「この人と一緒なら、どんな戦いにも勝てる」という強烈な確信である。

 それは世代を超え、伝えられていく。ここに大阪の強さの秘けつがある。

 大阪での約半年間、室長は訪問指導だけで八千人と会った。その足跡を取材班が赤ペンでマークすると、大阪の地図は、ほぼ真っ赤に塗りつぶされた。

 室長が誰よりも先頭に立って行動したことで、幹部が動く大阪になった。

 室長が会員と同じ目線で語ったことで、いばる幹部を許さない大阪になった。

 室長が愉快に前進の指揮を執ったことで、楽しい大阪になった。

 真っ赤な地図の上に、理想の組織が見えるようだった。



 豆タンクのニックネームで慕われたのが、地区部長の岡本富夫(梅田地区)である。

 猪突猛進タイプ。

 大阪の戦いで張り切りすぎ、いつの間にか商売が傾きかけていた。家族の間も、ぎすぎすしている。自分のことが全く見えない。

 そんな時、一枚の葉書が届く。差出人を見て驚いた。

 池田室長からである。

 「世紀の大法戦 広布の大将軍として 光輝ある指揮をとられよ」と記された後に、こう書かれていた。

 「仕事と夫人を大切に」

 岡本は、自分の頭をぽかんと殴りたい思いだった。アホなことしてしもうた……。

 室長は、お見通しだ。申し訳ない。商売や家のことまで心配をかけてしまった。

 心を入れ替えた岡本は家族に頭を下げた。

 ある夜、大きな紙を取り出し、字を書き始めた。

 「ええか、これは我が家の家訓や」

 仏壇の横の古い壁に画鋲でとめ、読みあげた。

 「池田先生によって育てていただいた我が岡本家は、この御恩を生涯、忘れてはならない……末代までこのことを語り伝え、厳守せよ」

 字は少々へたくそだが、声には気合いがこもっていた。関西の金同志の心を代弁していると言ってよい。

 池田室長によって生きがいを知った。真に正しい人生の道とは何かを教えてもらった。この「大恩」を関西は永遠に忘れない。



 最後に「大阪の戦い」の今日的意義について、一言つけ加えておきたい。

 明治以降に伸びた、いわゆる新宗教の分布を見ると、その多くが、発祥の地に教勢が片寄っている。

 日本列島は小さいようでいて、歴史や風土や人の気質は、それぞれの地域で大きく異なる。宗教を受け入れる土壌もまた然りである。

 教団の生まれた本拠地では強いが、他方面への展開は苦手。やがて外に拡大するエネルギー自体が失われていく。

 奈良の天理教なら西日本、東京の立正佼成会なら東日本に勢力の中心があった。

 目に見えない壁がある。

 では、創価学会は、どうであったか。

 先述したように、戸田城聖第二代会長が誕生するまで、学会員は首都圏の十二支部に所属していた。東京を中心とする教団になってしまう可能性もあった。

 しかし昭和三十一年の「大阪の戦い」で、大阪・堺支部の会員は、中国、四国、九州へ一気に広がり、西日本全域に学会員が増大する。

 壁は破れたのである。

 創価学会は、日本の東にも西にも強い、きわめて例外的な宗教団体となった。

 やがて、SGI(創価学会インタナショナル)として、全世界へ伸びていく基盤が、整ったのである。

 池田大作青年という一人の若き指導者によって、戸田会長は勝った。そして学会という一大民衆勢力もまた勝ったのである。    (完)