小説「新・人間革命」  5月26日 波濤36

一九八九年(平成元年)の四月、山本伸一は、ソ日協会会長を務める、ソ連のY・M・ボリメル海運大臣と聖教新聞社で会談した。

 その折、伸一は、「波濤会」メンバーの活躍を紹介したのである。

 「貴国と日本の相互理解のためには、さまざまな文化交流を図っていくことが大事になります。そこで、“働く海の男たち”の友情の交流を検討してみてはどうでしょうか」

 海運大臣も賛同した。

 その会談が報じられた「聖教新聞」を目にしたメンバーは、驚きの声をあげた。

 “山本先生は、ソ連の海運大臣に、私たちのことを話してくださった。先生の心のなかには、常に私たちがいるんだ。よし、日ソ友好のために、力を尽くしていこう!”

 彼らは、伸一の提案を実現しようと、さまざまな可能性を探った。しかし、なかなか具体的な交流の道を開くことはできなかった。

 一九九三年(平成五年)のことである。ロシアを訪問する豪華客船の乗組員のなかに、何人かの「波濤会」メンバーがいた。

 彼らは、訪問地のウラジオストクで、旅行者の通訳にあたったロシアの極東国立総合大学の学生たちと、友好を結んだ。語らいのなかで、「波濤会」の写真展にも話題が及んだ。

 メンバーは、その後も、個人的に交流に努め、何度か、ウラジオストクを訪問した。

 交流の種子が蒔かれたら、丹精して育て上げることだ。誠実な交流を重ねてこそ、種は芽吹き、友情の花は開く。彼らは、伸一の蒔いた種を花開かせようと、必死であった。

 メンバーは、極東大学の学生たちから、S・N・イリイン東洋学部長を紹介された。学部長は学生から、「波濤会」の写真展についての話を聞いて、強い関心をいだいていた。

 メンバーは、イリイン学部長に、日ソの民衆交流のために、同大学で写真展を開催してはどうかと提案してみた。

 「すばらしい意見です。実現しましょう」

 学部長は、目を輝かせて言った。