小説「新・人間革命」  6月25日 波濤61

「青春会」は、この一九七五年(昭和五十年)九月二十八日の東京を中心としたグループの結成に続いて、次々と各方面に誕生していった。

 十月には、関西、九州、十一月には、中国、中部、十二月には、北海道、関東に結成。

さらに翌年には、神奈川、東北、信越・北陸に、そして、七七年(同五十二年)九月には、静岡、四国、沖縄に「青春会」が結成され、全国の布陣が整ったのである。

 その間に、女子部長も田畑幾子から藤谷幸栄に交代していた。

いわば、二代の女子部長を中心に、女子部の全国と方面の首脳が、あらゆる角度から人選し、全精魂を注いでつくった、人材の中核が「青春会」といえよう。

 山本伸一は、深く心に決めていた。

 “二十一世紀を担う人材を育成するために奮闘した、

女子部首脳の思いを、その健気な努力を、絶対に無にするまい。むしろ、彼女たちが、自分たちの努力が、これほど美事に実を結ぶのかと驚嘆するほど、メンバーを大人材に育てよう”と。

 彼は「青春会」メンバーとは、結成式をはじめ、さまざまな機会に、直接会い、指導を重ねた。また、

「わが娘よ 弟子よ 断じて 負けるな」(関西青春会)、「わが娘なれば 断じて 挫折と絶望の二字を 捨て去ることだ」(九州青春会)など、指針も贈った。

 さらに、各方面に出かけた折には、会員激励のための仕事を手伝ってもらうなど、メンバーと共に行動した。生命を削って同志を励まし、奉仕する自分の姿を通して、学会の精神を、彼女たちに伝えようとしたのだ。

まさに、手づくりの人材育成であった。

 「女性の組織を強くしていくためには、新しいリーダーを大胆に抜擢し信頼し、実際の戦いのなかで、忍耐強く育てていくことである。

そうやって、民衆のなかで成長していった女性リーダーは、幾百万の広大な女性たちを率いていくことができる」(注)――これは、伸一と峯子が深い交友を結ぶことになる、周恩来総理の夫人・トウ穎超の言葉である。



引用文献 注 金鳳著『トウ穎超伝』人民出版社(中国語)