【第5回】 民主主義の父 リンカーン 2009-7-10 (上)

さあ、今日という一日を、思う存分に戦い切ることだ。

一切は、そこから開ける。

「今日の苦闘は、今日だけのものではない。

それは、壮大な未来のためのものでもある」

こう語りかけ、青年を励ましてくれる先哲がいる。誰にも増して、悪戦苦闘の人生を生き抜き、人類の未来を切り開いた、筋金入りの苦労人だ。

その人こそ、アメリカ合衆国の第16代大統領エイブラハム・リンカーンである。

1960年の10月、私は、世界への平和旅を、アメリカから開始した。

首都ワシントンDCでは、ギリシャ神殿を思わせる白亜の殿堂を訪れた。リンカーン大統領の記念堂である。

大理石で造られたリンカーンの大坐像が迎えてくれた。

広い額、高い鼻、鋭くも温かい眼光からは、聡明な頭脳と強靭な意志が伝わってくる。

その顔こそ、「ひとかたならぬ苦労によって崇高な人間性という秘宝が姿をあらわした」と讃えられた尊容である(マリオ.M・クオモ/ハロルド・ホルザー編著、高橋早苗訳『リンカン民主主義論集』角川選書

壁に刻印されているのは、かの有名な「ゲティスバーグ演説」の一節であるー。

「人民の、人民による、人民のための政治をこの世から消滅させてはならないのです」(前掲書)

万人の生命の尊厳と平等を説き明かした仏法哲学を掲け、平和のため、人類の幸福のため、この「人民根本」の理念を実現していくことが、広宣流布の展開であると、私は同行の青年たちと強く語り合った。

昨年、このリンカーン記念堂から程近い「大使館通り」の一角に、創価のワシントンDC文化会館が誕生した。

学識者を招いての平和講演会なども、活発だ。ロビーに飾られたリンカーン大統領の肖像が、わが愛するアメリカの友を見守っている。

民衆詩人の讃歌リンカーン大統領と同時代を生きた、民衆詩人ホイットマンは語っている。

「私の親愛なる愛しき母親の次に、他の誰よりもリンカーン大統領を、私は最も親しく、そして身近に感じるのだ」

彼らが共に生きた19世紀半ば、アメリカは奴隷制度の是非をめぐり南北が分裂し、激しい憎悪をもって自国民が争う状態が続いていた。

だがリンカーンは、厳然と民主主義の精神を貫きながら自由と平等の建設へ舵取りをしていった。

「穏やかで、率直で、義に篤く、意志強く、周到な指揮ぶりで、/どんな国どんな時代にも例を見ぬ史上最悪の罪を敵にまわし、/諸州寄りつどう連邦を救ってくれた」(酒本雅之訳『草の葉⑨』岩波文庫

リンカーンを賛嘆したホイットマンの詩の一節である。

ホイットマンリンカーンによって素晴らしい詩想を得、リンカーンホイットマンによって輝きを増した。二人の詩心と信念は、米国を希望の方向へ前進させたのだ。

今年は、リンカーンの生誕200周年である。この佳節に、米国史上初のアフリカ系の元首として、パラクオバマ大統領が誕生した。

母国再生の指揮を執り、理想を追い求めつつ、徹して現実主義者であり続けるオバマ大統領に、リンカーンを重ね合わせる人は少なくない。

オバマ大統領も、リンカーンを深く敬愛し、「比類なき偉人が大統領を務めたおかげで、私の物語は可能になった」と感謝を捧げている。

私が交友を結んだ世界的な経済学者のサロー博士は、「最も評価される歴史上の指導者は」との問いに、リンカーンを挙げられた。

先般、お迎えした、英国の名門クイーンズ大学ベルファストのグレッグジン学長も、リンカーンの深き精神性と明確なビジョンを高く評価されている。

私も、実業家の松下幸之助氏から「今までの世界の歴史において、偉大な政治家と思う方は誰か」と問われ、明快にリンカーンと答えた。



激戦の中で磨け



なぜ、リンカーンが偉大か。

何よりも、常に庶民を愛し、人々の苦しみを、わが苦しみと感ずる深き慈愛の心に

あふれていた。

あの南北戦争の際、女性たちから寄せられた夫や息子の除隊願いの大部分を受け入れたことも、よく知られる。

青春時代、私が編集長を務めていた雑誌「少年日本」でも、リンカーンと少年との麗しい逸話を紹介したことがある(1949年12月号)。

南北戦争のさなか、大統領のもとで働く少年給仕は、必死に働いて得たお金を、病気に苦しむ父と母に仕送りして支えていた。

その状況を知ったリンカーンは、健気な少年に真心の金貨を贈り、こう語ったという。

「明日、早速、お母さんに送ってあげるがいい。

どんなに貧乏していても、君のような孝行者を子に持つた母親が羨ましいと、大統領が申しましたと手紙に書いてあげなさい」

リンカーンの振る舞いは、民主主義を体現していた。

地位や立場に関係なく、誰とでも友人となり、親切で、思いやりのある言葉をかけていったとの証言が多々ある。

それは、リンカーンが若くして、人生の茨の道を歩んできたからにちがいない。

1809年の2月12日、ケンタッキー州の開拓農民の子として丸太小屋で生まれた。

正規の学校教育を受けたのは、1年にも満たなかった。

9歳の時に、愛母と死別する。青年時代には、営んでいた雑貴店が破産し、多大な借金を抱えたこともあった。

しかし、彼は屈しない。努力を惜しまなかった。働きながら読書に励み、思索を重ね、文章を綴り、自らの見識を養った。そうして得た知識を、庶民との交流で智慧に変えた。

実社会という総合大学の中で自身を磨いたのである。

世界の一流の人物に共通する足跡であり、わが創価の多くの同志が歩んでいる道だ。

リンカーンは苦難を前に一歩も退くことなく、借金も、十数年かけて完済した。

誠実、勇気、忍耐ー艱難は、その人間力を鋼の如く鍛え上げていった。

大統領に就任した際、閣僚に7人の大学出身者がいた。

もしシーソーの一方に7人が乗っても、片方にリンカーンが乗れば、彼の重みで相手の7人は空高く跳ね飛ぱされてしまうだろう。そう評されたくらいである。

この話を通して、戸田先生も、よく語ってくださった。

l庶民の中にこそ、英知がある。労苦の中でこそ、実力は磨かれる。わが青年部は、激戦の中で、どんなに威張り腐った連中にも、断じて負けない力をつけよ、と。

虚偽には抗議を州議員の時代のことである。リンカーンの人気と名声を嫉んだ対立候補が、公衆の面前で卑怯な人身攻撃を始めた。

その男は、立身出世を企んで自らの信念を曲げ、かつての盟友も裏切る変節漢であった。

リンカーンは正義の弁舌で戦った。当意即妙のユーモアを交え、虚偽を毅然と正した。

獅子の雄弁の前に、相手は一目散に退散したという。

「抗議すべき時に沈黙する者は、卑劣な人間となってしまう」とは、彼の信条である。

そしてまた、「真実は中傷に対する最上の弁明である」と確信していたのだ(石井満著『リンカーン旺文社文庫)。

言論の自由」は民主主義の誇り高き柱の一つである。

それは、根拠のない虚偽を流す自由ではない。人々を騙す欺瞞を語る権利でもない。

真実と公正な社会を築くためにあるのだ。

ゆえに、リンカーンは、言論の暴力を許さなかった。

「正しい証拠と公正な議論を虚偽と欺瞞にすりかえる権利は誰にもないのです」とは、リンカーンの獅子吼である(『リンカーン民主主義論集』)。



起死回生の作戦



リンカーンは、逆境を撥ね返す勝負強さを持っていた。

土壇場に追い込まれても、底知れない粘りがあった。

大統領再選の選挙の際も、そうであった。

長期化する南北戦争への不安から、勝利は遠のいていた。「リンカーンはもう駄目た」「勝つのは不可能だ」と、味方からも見放された。

絶対絶命のリンカーン陣営が取った起死回生の作戦ーそれは、出征している北軍の兵士たちも、確実に投票の権利を行使できるように万全の態勢を整えることであった。

最後まで、気を緩めることなど決してなかった。

結果は逆転勝利! 作戦は見事、難局の突破口を開いた。

断じて諦めない追撃の布石に勝因があった、と分析する歴史家もいる。

「断固として立つなら、破れることはありません」

「遅かれ旱かれ、勝利はかならずめぐってくるのです」(前掲書)

これが、百戦練磨のリンカーンの勝負哲学であった。

ロシアの文豪トルストイリンカーンを讃えて言った。

「全世界を包みこむ人道主義者だった」と(マリオ・M・クオモ/ハロルド・ホルザー編著、高橋早苗訳『リンカン民主主義論集』角川選書)。

世界に開かれ、世界のために貢献する。人類とつながり、人類から信頼される。

この世界市民の先駆の道を、リンカーン大統領は歩んだ。それは、日本の民主主義の夜明けにも連動している。

わが関西の出身で、幕末期、日本最初の新聞を横浜で創刊した浜田彦蔵は、リンカーンとの出会いを宝としていた。

「大統領は大きな手をさしのべて、日本のような遠いところからよく来てくれましたね、といい、まどころのこもった握手をかわした」(近盛晴嘉著『ジョセプ彦』日本ブリタニカ)

いささかも権威ぶらない。対等に親切に迎えてくれた。

人間指導者の握手の温もりは、青年の行動の熱となった。

彦蔵は、合衆国憲法をモデルに「信教の自由」などを備えた憲法の草案を提出したことでも、知られている。

リンカーンも彦蔵も追求しだ「人道」を、人類の指標として高らかに掲げたのが先師牧口三郎先生である。

先生は「ちっぽけな島国根性で『蝸牛(カタツムリ)の角の争い』をしている時代ではない」と戒められた。

その心を心とする、創価の平和と正義と人道の連帯は、世界192カ国に広がった。

今や、「民主主義の殿堂」たるアメリ連邦議会からも、意義深い顕彰を拝受する時代に入っている。

世界が、我ら創価の前進そして勝利を祈り、待ってくれていることを忘れまい。