随筆 人間世紀の光 NO.196 師弟共戦の8月 ㊤ 2009-8-6
君もまた 広宣流布の ナポレオン 断固前進 勝ちまくれ
この八月は、世界史の大英雄ナポレオンの生誕二百四十周年に当たっている。
『前進!』ーこれは、わがナポレオン家の歴史と精神を表す言葉でもあります」
私が対談を進めるナポレオン家の当主シャルル・ナボレオン公は語られた。
「人類は、弛みなく前進を続けていかなければなりません。歴史は前に向かってしか進まないのです」
日々、前進だ!
日々、決戦だ!
日々、勝利だ!
広宣流布に生き抜く我らに停滞はない。
「進まざるは退転」だ。
前進してやまぬ生命それ自体が常に勝利者である。
対談で、私たちは、常勝将軍ナポレオンの強さについても語り合った。
結論は「スピード」ーすなわち「即断即決」「電光石火」の行動であった。
ナポレオンいわく。
「戦術とは時と処とを活用する技術だ」
「迅速の進行が「勝利を得る力を増加する」と、確信していたのである。
時を逃すな! スピードが力だ。勢いで決まる。
仏法の諸天善神の一つ「韋駄天」は、早く走る象徴として知られる。もともとの呼び名は「スカンダ」である。これは、アレクサンドロス大王(ペルシャ語等でイスカンダル)の名前の転訛とする学説もある。
古代の人びとが、疾風の如く駆け抜ける若き大王の姿に畏敬の念を抱いたのであろうか。
ともあれ、ナポレオンが尊敬してやまなかったアレクサンドロス大王の強さも、〃決断の勇気〃であり〃迅速の行動〃にあった。
失った過去は取り戻せない。だが、未来は誰人にも平等にやってくる。
「今」を価値的に「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書二三一ページ)と「心地観経」は説く。
今この時を、いかに戦うか。次の瞬間を、いかに動くか。そして今日の一日を、いかに価値的に使うか。その連続闘争の中に、勝利の因がある。
これが、「法華経の兵法」の鉄則だ。
恐れるな 前へ前へ 悠々と そこに必ず 勝利の旗が英雄ナポレオンの光と影には、さまざまな評価がある。それはそれとして、そのリーダーシップからは、時代を超えて学ぶべき、勝利の「将軍学」があろう。
時は一七九六年八月ー二十六歳の若きナポレオンが、わずか五日間という「短期決戦」で、圧倒的勝利を収めた戦闘があった。
「カスティリオーネの戦い」である。
優秀な部隊を有するオーストリア軍五万人と、ナボレオンの率いる二万五千人のフランス軍が、イタリア北部の町カスティリオーネで対峙したのだ。
オーストリア軍は、大軍にまかせて勢いづいていた。ナポレオン軍の兵力は半分の劣勢である。加えて相次ぐ戦闘で、肉体的にも疲労の極みにあった。
だが、決戦に臨むナポレオンの表情は溌刺と輝き、意志は厳の如く揺るがなかった。自ら各部隊を励まし、将兵たちを鼓舞した。
ただただ勝利のために一念を定め、目の前にある打てる手を、迅速に的確に打っていったのである。
八月五日の夜明け。遂に決戦の火ぶたが切って落とされた。
先手を打ったのはナポレオン軍だ。夜のうちにオーストリア陣営の左翼の背後に進み、暁とともに襲いかかったのである。
この第一撃に驚き乱れた敵陣に対して、ナポレオン軍は追撃の手を緩めない。
ナポレオン軍のあまりの勢いに、敵の大軍の士気は一気に下がった。ここに、勝敗を決したのだ。
この時の攻撃のポイントは大きく二つ挙げられる。
一つは、攻められる前にスピーディーに攻撃を加える「先手必勝の猛攻撃」。
そして二つ目は、全軍が一枚岩となって、最後まで戦い抜く「固い団結」だ。
「少軍で大軍に対抗しようとする時はーナポレオンは、大軍を相手にする時の心構えを記している。
それは「迅速に味方を集合し、あたかも雷の如く」突撃することであった。
要は、いざという時、味方がすぐに一つにまとまることである。機先を制し、先手、また先手で、押し続けるのだ。
いかなる戦いも「遅滞」「散漫」「後手」では、流れはできない。何よりも、そうした戦いの起点に、逡巡の気持ちがあれば、力を出し切れないものだ。
ナポレオンは、それを痛烈に訴えた。
「成功を確信する者は成功する。決して成功の如何を疑うことなく、必ず成功すべしと確信せよ」
迷うことなく突き進め!
恐れなく前へ前へ!
そうすれば、結果は必ず、わが方についてくる。
本当の敗北は、環境や状況に左右され、「勝つ!」と決められない一念の甘さ、弱さにこそある。
その已心の一凶を破ることが、真の勇者の条件だ。
ナポレオンの深さは、自軍を知ると同時に、よく敵軍を知っていた点にある。
「人は自己の艱難を見ることはあっても、敵の困難を見ることができない」と。
自分の心が臆ずると、敵は実像よりも大きく見える。だが必ず勝機はある。
最後の最後まで、粘り強く攻め切った方が勝つのだ。
御聖訓には、「かたきをしられば.かたきにたぼら(証)かされ候ぞ」(御書九三一ページ)と仰せである。
我らには、妙法という最極の生命の明鏡がある。研ぎ澄まされた信心の眼で、一切の事象を鋭く見極めていくのだ。
そして、時を逃さず、一気呵成に攻めるのである。
不撓不屈で勝ち抜くのだ!
ナポレオンは力説した。
「目的を貫徹するのは、ただ堅忍と不撓とによる」
「原爆より魂は強し」
ところでナポレオンは、こう語ったという。
「世界には二つの力しかない、すなわち剣と精神とである」「ついには、剣は常に精神によって打ち破られる」
この言葉に鋭く反応し、「精神」の勝利を叫び抜いたのが、非暴力の闘士マハトマ・ガンジーであった。
六十四年前、あの原爆の惨禍を直視しながら、なお「『魂の力』は原子爆弾よりも強い」と、彼の信念は揺るがなかった。
一九九三年(平成五年)の八月六日の「広島原爆の日」ー私は長野研修道場で、インドの哲学者ラダクリシュナン博士と、このガンジーの信念を語り合った。
そして、その日、私は、「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない」と、小説『新・人間革命』の冒頭を書き始めた。人類の平和へ、精神の勝利へ、新たなる言論闘争を開始したのである。
ガンジーの「行動」を、「即戦即決でした」と讃えたのは、共戦の弟子であったネルー初代首相だ。
平和への戦いも、大事なのは勇気であり、果断であり、スピードである。
わが大阪・夏の陣
連戦と連勝 綴りし 錦州城 さらに勝ちゆけ 常勝舞いゆけ
炎暑の八月を迎えるたびに、私は、師と共に〃連戦連勝〃の金字塔を打ち立てた歴戦を思い出す。
毎年の「夏季地方指導」である。それは、常に二週間に満たない短期決戦であった。そこに凝結し抜いた勝利勝利の歴史を刻んだ。
私が常勝関西の大城・大阪に第一歩を印したのも、夏季地方指導であった。
昭和二十七年(一九五二年の八月十四日ー師匠・戸田先生と初めてお会いした″師弟の日〃から五年後のことである。
特急「つばめ」があの関西の大動脈。淀川の鉄橋を渡りゆく折の命の鼓動が蘇る。いざや前進!と。
その夜、飛び込んだのは、文化の都・堺の座談会であった。わが同志は躍動し、七人の新来の友が入会を決意したと記憶する。
私は、先師と恩師の願い通りに、創価教育の学園・大学を創立し、偉大な指導者を育成する構想も、この堺で語った。
さらに大正区、東淀川区等の集いにも、勇んで参加したことが懐かしい。
その翌年も、翌々年も、八月に、戸田先生と私は大阪で折伏の波動を広げた。
師弟して正義の師子吼を放った仏教大講演会で、六十九人もの方が一度に入会を申し出たこともあった。
西成区にあった花園旅館などを拠点に、愛する大阪の庶民の街、人間の大地を、金の汗を流して走った歴史は、青青の誉れだ。
「大坂・夏の陣」で活躍した、奈良出身の有名な剣豪・柳生宗矩は、勝負において「油断」を厳しく戒めた。
「二重、三重、猶四重、五重も打つべき也」と。
ともあれ間髪入れずに、徹底して攻め抜く!
そこに、勝つための極意を定めていたのである。
ナポレオンの言葉は奈翁会編『奈翁全伝』(隆文館書店)の5・7巻=現代表記に改めた。最後の言葉のみオプリ編『ナポレオン言行録』大塚幸男訳(岩波書店)。ネルーはメンデ著『ネールは主張する』大山聰訳(紀伊国屋書店)。抑生宗短の言葉は『兵法家伝書』渡辺一郎校注(岩波書店)。
この八月は、世界史の大英雄ナポレオンの生誕二百四十周年に当たっている。
『前進!』ーこれは、わがナポレオン家の歴史と精神を表す言葉でもあります」
私が対談を進めるナポレオン家の当主シャルル・ナボレオン公は語られた。
「人類は、弛みなく前進を続けていかなければなりません。歴史は前に向かってしか進まないのです」
日々、前進だ!
日々、決戦だ!
日々、勝利だ!
広宣流布に生き抜く我らに停滞はない。
「進まざるは退転」だ。
前進してやまぬ生命それ自体が常に勝利者である。
対談で、私たちは、常勝将軍ナポレオンの強さについても語り合った。
結論は「スピード」ーすなわち「即断即決」「電光石火」の行動であった。
ナポレオンいわく。
「戦術とは時と処とを活用する技術だ」
「迅速の進行が「勝利を得る力を増加する」と、確信していたのである。
時を逃すな! スピードが力だ。勢いで決まる。
仏法の諸天善神の一つ「韋駄天」は、早く走る象徴として知られる。もともとの呼び名は「スカンダ」である。これは、アレクサンドロス大王(ペルシャ語等でイスカンダル)の名前の転訛とする学説もある。
古代の人びとが、疾風の如く駆け抜ける若き大王の姿に畏敬の念を抱いたのであろうか。
ともあれ、ナポレオンが尊敬してやまなかったアレクサンドロス大王の強さも、〃決断の勇気〃であり〃迅速の行動〃にあった。
失った過去は取り戻せない。だが、未来は誰人にも平等にやってくる。
「今」を価値的に「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書二三一ページ)と「心地観経」は説く。
今この時を、いかに戦うか。次の瞬間を、いかに動くか。そして今日の一日を、いかに価値的に使うか。その連続闘争の中に、勝利の因がある。
これが、「法華経の兵法」の鉄則だ。
恐れるな 前へ前へ 悠々と そこに必ず 勝利の旗が英雄ナポレオンの光と影には、さまざまな評価がある。それはそれとして、そのリーダーシップからは、時代を超えて学ぶべき、勝利の「将軍学」があろう。
時は一七九六年八月ー二十六歳の若きナポレオンが、わずか五日間という「短期決戦」で、圧倒的勝利を収めた戦闘があった。
「カスティリオーネの戦い」である。
優秀な部隊を有するオーストリア軍五万人と、ナボレオンの率いる二万五千人のフランス軍が、イタリア北部の町カスティリオーネで対峙したのだ。
オーストリア軍は、大軍にまかせて勢いづいていた。ナポレオン軍の兵力は半分の劣勢である。加えて相次ぐ戦闘で、肉体的にも疲労の極みにあった。
だが、決戦に臨むナポレオンの表情は溌刺と輝き、意志は厳の如く揺るがなかった。自ら各部隊を励まし、将兵たちを鼓舞した。
ただただ勝利のために一念を定め、目の前にある打てる手を、迅速に的確に打っていったのである。
八月五日の夜明け。遂に決戦の火ぶたが切って落とされた。
先手を打ったのはナポレオン軍だ。夜のうちにオーストリア陣営の左翼の背後に進み、暁とともに襲いかかったのである。
この第一撃に驚き乱れた敵陣に対して、ナポレオン軍は追撃の手を緩めない。
ナポレオン軍のあまりの勢いに、敵の大軍の士気は一気に下がった。ここに、勝敗を決したのだ。
この時の攻撃のポイントは大きく二つ挙げられる。
一つは、攻められる前にスピーディーに攻撃を加える「先手必勝の猛攻撃」。
そして二つ目は、全軍が一枚岩となって、最後まで戦い抜く「固い団結」だ。
「少軍で大軍に対抗しようとする時はーナポレオンは、大軍を相手にする時の心構えを記している。
それは「迅速に味方を集合し、あたかも雷の如く」突撃することであった。
要は、いざという時、味方がすぐに一つにまとまることである。機先を制し、先手、また先手で、押し続けるのだ。
いかなる戦いも「遅滞」「散漫」「後手」では、流れはできない。何よりも、そうした戦いの起点に、逡巡の気持ちがあれば、力を出し切れないものだ。
ナポレオンは、それを痛烈に訴えた。
「成功を確信する者は成功する。決して成功の如何を疑うことなく、必ず成功すべしと確信せよ」
迷うことなく突き進め!
恐れなく前へ前へ!
そうすれば、結果は必ず、わが方についてくる。
本当の敗北は、環境や状況に左右され、「勝つ!」と決められない一念の甘さ、弱さにこそある。
その已心の一凶を破ることが、真の勇者の条件だ。
ナポレオンの深さは、自軍を知ると同時に、よく敵軍を知っていた点にある。
「人は自己の艱難を見ることはあっても、敵の困難を見ることができない」と。
自分の心が臆ずると、敵は実像よりも大きく見える。だが必ず勝機はある。
最後の最後まで、粘り強く攻め切った方が勝つのだ。
御聖訓には、「かたきをしられば.かたきにたぼら(証)かされ候ぞ」(御書九三一ページ)と仰せである。
我らには、妙法という最極の生命の明鏡がある。研ぎ澄まされた信心の眼で、一切の事象を鋭く見極めていくのだ。
そして、時を逃さず、一気呵成に攻めるのである。
不撓不屈で勝ち抜くのだ!
ナポレオンは力説した。
「目的を貫徹するのは、ただ堅忍と不撓とによる」
「原爆より魂は強し」
ところでナポレオンは、こう語ったという。
「世界には二つの力しかない、すなわち剣と精神とである」「ついには、剣は常に精神によって打ち破られる」
この言葉に鋭く反応し、「精神」の勝利を叫び抜いたのが、非暴力の闘士マハトマ・ガンジーであった。
六十四年前、あの原爆の惨禍を直視しながら、なお「『魂の力』は原子爆弾よりも強い」と、彼の信念は揺るがなかった。
一九九三年(平成五年)の八月六日の「広島原爆の日」ー私は長野研修道場で、インドの哲学者ラダクリシュナン博士と、このガンジーの信念を語り合った。
そして、その日、私は、「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない」と、小説『新・人間革命』の冒頭を書き始めた。人類の平和へ、精神の勝利へ、新たなる言論闘争を開始したのである。
ガンジーの「行動」を、「即戦即決でした」と讃えたのは、共戦の弟子であったネルー初代首相だ。
平和への戦いも、大事なのは勇気であり、果断であり、スピードである。
わが大阪・夏の陣
連戦と連勝 綴りし 錦州城 さらに勝ちゆけ 常勝舞いゆけ
炎暑の八月を迎えるたびに、私は、師と共に〃連戦連勝〃の金字塔を打ち立てた歴戦を思い出す。
毎年の「夏季地方指導」である。それは、常に二週間に満たない短期決戦であった。そこに凝結し抜いた勝利勝利の歴史を刻んだ。
私が常勝関西の大城・大阪に第一歩を印したのも、夏季地方指導であった。
昭和二十七年(一九五二年の八月十四日ー師匠・戸田先生と初めてお会いした″師弟の日〃から五年後のことである。
特急「つばめ」があの関西の大動脈。淀川の鉄橋を渡りゆく折の命の鼓動が蘇る。いざや前進!と。
その夜、飛び込んだのは、文化の都・堺の座談会であった。わが同志は躍動し、七人の新来の友が入会を決意したと記憶する。
私は、先師と恩師の願い通りに、創価教育の学園・大学を創立し、偉大な指導者を育成する構想も、この堺で語った。
さらに大正区、東淀川区等の集いにも、勇んで参加したことが懐かしい。
その翌年も、翌々年も、八月に、戸田先生と私は大阪で折伏の波動を広げた。
師弟して正義の師子吼を放った仏教大講演会で、六十九人もの方が一度に入会を申し出たこともあった。
西成区にあった花園旅館などを拠点に、愛する大阪の庶民の街、人間の大地を、金の汗を流して走った歴史は、青青の誉れだ。
「大坂・夏の陣」で活躍した、奈良出身の有名な剣豪・柳生宗矩は、勝負において「油断」を厳しく戒めた。
「二重、三重、猶四重、五重も打つべき也」と。
ともあれ間髪入れずに、徹底して攻め抜く!
そこに、勝つための極意を定めていたのである。
ナポレオンの言葉は奈翁会編『奈翁全伝』(隆文館書店)の5・7巻=現代表記に改めた。最後の言葉のみオプリ編『ナポレオン言行録』大塚幸男訳(岩波書店)。ネルーはメンデ著『ネールは主張する』大山聰訳(紀伊国屋書店)。抑生宗短の言葉は『兵法家伝書』渡辺一郎校注(岩波書店)。