【第4回】 反転攻勢の本陣 東京 立川  2010-2-5

ここから新しい立川を作ろう
 
 立川の、そして第2総東京の同志が立文の愛称で慕う「立川文化会館」。
 地上5階建て。目を見張る威容。大型会館の先駆けとして誕生した同会館は、立川の友にとって、大きな誇りであり希望であった。全国の同志の憧れだった。
 落成は、第1次宗門事件の嵐の中の、昭和52年1977年)12月21日。そのわずか2日後、名誉会長は初訪問している。
 学会世帯も少なく、都心からも遠い多摩地域に、なぜ、こんな立派な会館が必要なのかと首をかしげる幹部もいた。
 だが名誉会長は違った。多摩地域の未来を見据えた建設。小平市創価学園と八王子市の創価大学の間にも位置する。
 そして「あの宗門問題のさなかの5年間、私は、立川こそを本陣と定めて指揮をとった」と。
 昭和53年以降、会館の内外で、名誉会長から激励を受けた同志は数知れない。
 時にはロビーで、打ち合わせの仏間で、玄関で、駐車場で……。「突然に」「ばったり」「思いがけず」先生と会えた!──それが同志の実感だった。
 名誉会長は強く語った。
 「幹部は、待っていては駄目だ。自分から飛び出すんだ。声をかけるんだ。どんどん会っていくんだ!」
 立川文化会館を起点に、第2総東京中を駆けた。町田圏総会に出席し、裏方の役員や会場に入れない友にまで励ましを送った。第2東京(当時)幹部会では、「日野から烽火をあげよ!」と、大前進を呼びかけた。
 全国各地の愛唱歌も、次々と作詞作曲した。女子部歌「青春桜」をはじめ、白蓮グループ歌「星は光りて」などが誕生したのも、この会館だった。
 昭和54年4月23日、名誉会長は、立川から学会本部のある信濃町へ。24日には「会長辞任」の報。25日、再び立川へ。不安を隠せない会館職員を前に、師子は叫んだ。
 「もう一度、ここから新しい学会をつくろう!」
 「あっ、池田先生!」。昭島の女子部員、川窪千代さんは驚いた。友人と訪れた立川文化会館で突然、名誉会長に声をかけられた。昭和54年夏のことである。
 聖教新聞に掲載されることはない。公式な会合にも出られない。ならば──連日、名誉会長は同志の中に飛び込んだ。記念のカメラに納まり、励ましの言葉や支部証を揮毫した。
会合で使う入場整理券のスタンプ打ちも手伝った。
 会館の「守る会」だった芝崎安行さん。昭和55年の春、玄関ロビーをモップで磨いていると、背中に温かい視線を感じた。名誉会長だった。
「ご苦労さま。御書に『日夜朝暮に又懈らず磨くべし』とある」「磨くとは凄いことなんだ。生命を磨くことにも通じるんだ」
 白雲会の田中喜一郎さんは立川駅近くで料理店を営んでいた。名誉会長は、ここにも激励の足を運んだ。
 難しい話はしない。仕事の悩みに耳を傾け、アドバイスをする。真心込めた料理に、名誉会長は「おいしいね。ありがとう」と最高の笑顔を見せてくれた。
 「それに比べて、邪宗門は!」。喜一郎さんが怒りに震えたことがある。
 ある時、注文を受け、寺に料理を運んだ。応対した坊主が「おーい届いたぞ」。奥にいた坊主に向かって、料理の膳を足で押した。
 「宗門には、人間性のカケラもなかった!」
 「反転攻勢」とは、人と会い、「一人」を徹して励まし抜くこと──第2総東京の同志は、師の姿を心に深く刻みつけた。
 辞任から2年半。昭和56年11月2日の立川・西多摩圏の合同総会。会場となった創価大学中央体育館の壇上には、名誉会長の厳然たる雄姿があった。
 「仏法は勝負! ゆえに一切に勝ち抜いていただきたい!」──指導を終えた後、「嗚呼黎明は近づけり」の大合唱。渾身の指揮を執ったのは名誉会長だった。
 この1週間後、名誉会長は関西、四国へと本格的な地方指導へ。創価の新時代は、師弟の絆強き立川から日の出の勢いで始まった。