小説「新・人間革命」 2010年 6月10日 敢闘6

 各地に、歴代会長の遺品等を展示した記念館や記念室をつくろうと提案したのは、山本伸一であった。
 初代会長の牧口常三郎や第二代会長の戸田城聖の闘争と、その精神を学び、継承していくうえで、遺品や、ゆかりの品々に触れることは、必要不可欠であると考えたからだ。
 時がたてば、牧口や戸田を知る人もいなくなってしまう。その偉業や精神を伝える一つの方法は、書き残すことである。
だから伸一は、二十一歳で戸田の会社に勤め、戸田の身近で仕えるようになってから、日々の指導のことごとくを、メモに残してきた。その指導には、恩師の思想が凝縮されていた。
 さらに、遺品や写真などを、直接、見ることができれば、師を偲ぶ縁となり、その存在を身近に感じることができる。また、その品々は、師の偉業を裏づける証拠ともなる。
 そもそも、「学会を永遠ならしめるために、師匠の魂魄を永遠にとどめる場所をつくらねばならない」というのが、戸田城聖の考えであった。
 戸田は、一九五三年(昭和二十八年)に、学会本部が東京・ 千代田区 の西神田から、 新宿区 の 信濃町 に移転した折、自分が使う会長室よりも立派な一室を、「牧口先生のための部屋」と定め、そこに、牧口の写真を飾った。
 そして、伸一に語った。
 「ここには、牧口先生の生命がおられる。この学会本部で、私は、常に牧口先生と一緒に、広宣流布の指揮を執っていく。
 大聖人は『法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し』(御書一五七八ページ)と仰せである。南無妙法蓮華経という法のために殉教なされたのが牧口先生だ。
その先生のご精神をとどめてこそ、学会本部は尊貴なる場所となるのだ。ゆえに、学会の創始者である牧口先生のご精神を本部にとどめ、先生を讃嘆し、宣揚し、敬愛していくのだ。
 それは、広宣流布の団体として発展していくための基本中の基本だ」
 伸一は、師弟の真髄に触れた思いがした。