小説「新・人間革命」 6月11日 敢闘7

 戸田城聖は、それから、遺言を伝えるような厳粛な目で、山本伸一を見た。
 「将来、広宣流布のために、日本各地に会館をつくることになるだろう。いや、世界にも、多くの会館が誕生することになるだろう。また、断じて、そうしなければならない。
 その時には、『師と共に』という学会精神を、永遠ならしめるために、『恩師記念室』を設けて、創始者である牧口先生を偲び、顕彰していくのだ」
 戸田の言葉は、伸一の胸を射た。どこまでも師匠の精神を伝え抜き、宣揚していこうとする心に、彼は、熱いものが胸に込み上げてきてならなかった。
 "牧口先生のみならず、この戸田先生のご精神も大賞讃しなくてはならない。師弟の結合があり、師弟の血脈が流れてこその、創価学会である。そこに、広宣流布の永遠の流れがつくられるからだ!"
 創価学会の創立の日となった、一九三〇年(昭和五年)の十一月十八日は、『創価教育学体系』の発行日である。思えば、この発刊自体が、師弟共戦の産物であった。
 ――牧口常三郎の教育学説が「創価教育学説」と名づけられたのは、この年二月のことであった。
 当時、牧口は、東京・芝の白金尋常小学校の校長をしていたが、しばらく前から、教育局長や視学課長らによって、彼を排斥しようという動きが起こっていたのである。
 牧口は、小学校長在任中に、自分が積み上げてきた経験と思索をもとにした、後代の小学校教員の拠り所となる教育学説を、発表しておきたいと考えていた。
 二月のある夜、牧口と戸田は、戸田の家で火鉢を挟み、深夜まで語らいを続けていた。その席で、教育学説を残したいという牧口の考えを、戸田は聞いたのだ。
 多くの学者が、欧米の学問に傾倒していた時代である。日本の一小学校長の学説を出版したところで、売れる見込みはなく、引き受ける出版社もないことは明らかであった。