小説「新・人間革命」 7月2日 敢闘25

 山本伸一は、二十一歳で戸田城聖の会社に勤めた。そして、ほどなく、戸田の事業の挫折という、最大の苦境に陥る。しかし、彼は、敢然と師を厳護し抜いたのである。
 その伸一の激闘によって、難局を乗り切った戸田は、晴れて、第二代会長として、広宣流布の指揮を執ることになるのである。
 また、伸一が蒲田支部支部幹事として折伏戦を展開し、一支部で二百一世帯の弘教を成し遂げたのは、二十四歳の時であった。
この戦いによって、戸田が会長就任式の席上、生涯の願業として掲げた、会員七十五万世帯達成への突破口が開かれたのである。
 さらに伸一は、二十五歳で文京支部長代理となる。彼の奮闘は、低迷していた支部を、やがて第一級の支部へと発展させていく。
 伸一は、いまだ年も若く、全学会を率いる立場ではなかった。しかし、戸田の構想の実現を、わが使命と定め、組織の一角から、未聞の大勝利という烽火を上げ、広宣流布の突破口を開き続けてきたのである。
 年が若いから、立場を与えられていないから、権限がないから、時間がないから……など、力を発揮できない理由をあげれば、常に、枚挙にいとまがないものだ。
 広宣流布という仏意仏勅の使命と責任を果たしゆくには、年齢や立場など、問題ではない。大宇宙を己心にいだく信心の世界、仏の世界では、そんなことは、なんら障壁とはならない。
それらを理由に、力が発揮できないという考えにとらわれた時、自らの無限の可能性を放棄してしまうのだ。それこそが、魔に敗れた姿である。
 要は、師弟不二の自覚と祈りと実践があるかどうかである。それを実証してきたのが、ほかならぬ伸一であった。
 彼は、二十六歳で青年部の室長になると、実質的に学会の全責任を担った。
一九五六年(昭和三十一年)、二十八歳の時には、関西の地にあって、一支部で一カ月に、一万一千百十一世帯の弘教を成し遂げるなど、常勝関西の不滅の金字塔を打ち立ててきたのだ。