小説「新・人間革命」 7月15日 敢闘36
富島トシの地道な奮闘もあって、喜界島の広宣流布は、着実に進んでいった。
山本伸一が第三代会長に就任した翌年(一九六一年)八月、喜界島に初めて地区が結成され、富島は地区担当員(現在の地区婦人部長)になった。
古い木材などでつくった仮設住宅での暮らしが始まった。台所と一間だけの家である。
富島は、以前から、奄美大島や鹿児島などの幹部が指導に来ると、自宅を宿泊所に提供してきた。彼女は、こう考えていたのだ。
“泊まってもらえば、いろいろと指導を受けることができる。また、今の貧しい暮らしをよく見ておいてもらえば、功徳を受けた時、信心の実証が、よくわかってもらえる……”
彼女は、自分が大きな家に住みたいとは、思わなかった。ただ、喜界島まで指導に来てくれた人が、ゆっくり休めるために、広い家がほしいと思った。
また、何よりも、島の広宣流布のために、会合などに使える立派な会場がほしかった。懸命に祈った。
すると、東京に出て、不動産会社に勤めていた息子が、「母ちゃんのために、喜界島に家を建てる」と言ってくれた。
一九六四年(昭和三十九年)に、その家が完成した。会場として使用できる部屋は二十畳を超す。立派な富島の家は、地域の評判になり、多くの人が家を見に来た。その見事な実証によって、さらに折伏も進んだ。
広宣流布に生き抜くなかに、所願満足の人生があるのだ。
御聖訓にも「題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし」(御書八〇八ページ)と仰せである。