【第18回】 燦々と太陽の心で! 山光 鳥取 島根 2010-5-21

「最も苦労している人に光を!」
 
鳥取の米子文化会館が揺れるような歓声にわき返った。爆笑の声、声、声。
会場の外で任務に就いていた役員は、耳を疑った。「こんなにぎやかな集いが、今まであっただろうか」
平成3年(1991年)9月8日。池田名誉会長が出席した第1回「山光総会・音楽祭」である。
この日を迎えた同志には、三つの驚きがあった。
一つは、日本一の結果を出して当日を迎えられたこと。聖教新聞の推進をはじめ、あらゆる拡大に走り抜いた鳥取・島根の友。
名誉会長は席上、「日本随一、学会随一! 本当におめでとう!」と心からの賞讃を――。
かつて、ある友が名誉会長の前で、「小さな県ですが……」と口にした。関西や東京に比べると、どこかに引け目を感じていた。
名誉会長は間髪を入れず、「小さくなんかないんだ!」と。師子吼が同志の一念を変革した。
山光の鳥取・島根は東西に長く、交通の便もよくない。雪も多い。旧習も深い。第1次宗門事件では苦しみも味わった。だからこそ、師に晴れやかな勝利の報告を届けようと決めた。
合言葉は、呼ぼうよ、呼ぼうよ、先生を!。歌謡曲をもじって口ずさんだ。日本一は、師を求め抜いた証しだった。
二つ目は、かつてない笑顔に溢れた集いであったこと。山光の友は、自分たちを引っ込み思案で、話し下手だと思っていた。それが会合が始まるや、別人のようだった。
名誉会長の呼びかけに、鳥取・島根のリーダーが、「鳥取が一番です!」「いいえ、島根が一番です!」と、まるで漫才のようなやりとりを。
名誉会長は「お互いに、よきライバルでもあります。山光の両県が中国全体に波動を広げ、推進力となっている」と微笑み讃えた。
三つ目は、「山光」を冠した総会に、初めて名誉会長を迎えたことである。
その7年前、昭和59年(1984年)5月21日、一連の鳥取・島根指導の最中、代表者会議で名誉会長はこう訴えた。
「本来、仏法は、最も苦難の地域、最も苦労している人に光をあて、その人々のために貢献していくことが第一義の問題であると思う」「私はここを、光り輝く天地、つまり『山光』と申しあげたい!」
その時、初めて「山光」の言葉を耳にした宮井和子さん(中国婦人部総合長)。「目の前がぱっと開けた思いでした。じゃない、なんだと。あの日から、山光と言えることが、うれしくて、うれしくて」
両県の同志は、名誉会長のスピーチを山光提言として誇りにした。
名誉会長は、強き山光の「生みの親」であり「名付け親」。そして「育ての親」である。総会の翌日、山光広布史に永遠に刻まれる和歌を詠んだ。
 
 山光と  たれがつけたか   この光彩  日日の輝き    山陰消えたり
 
 きょうも友の心に太陽が昇る。サン・イン・ハート(山陰の心)に、山光の輝きに、日本中、世界中が目を見張る時代が始まった!