【第19回】  正義と平和の要衝 長崎  2010-5-28

友よいざ征け 黎明だ
 
 見上げると、美しい虹がかかっていた。
 南の空に光る機影。午後4時35分、ジェット機が滑走路に滑り込む。
 タラップに姿を現したのは池田名誉会長。送迎デッキから、爆発的な歓声が起こった。
 昭和55年(1980年)4月29日、長崎空港。5度目の中国訪問を大成功で終えた名誉会長が帰国した。
 会長辞任から1年。邪宗門の謀略渦巻く第1次宗門事件のさなかである。空港での出迎えも控えるようにと言われていた。
 だが師弟の絆を断ち切ることは絶対にできない。送迎デッキの友は、いつしか1500人にもなった。
 大きく手を振って、友に応える名誉会長。
 フェンスを掴み、凝視していた婦人は「ああ、先生が動いとらす(動いておられる)……」と一言。あとは言葉にならなかった。
 名誉会長は梅林二也県長(現・参議)に言った。
 「師子が来たのだから、もう心配はいらない!」
 反転攻勢の闘争劇の幕があがった。
 翌56年(81年)12月、名誉会長は、赤星照夫県男子部長(現・博多総県総合長)に提案した。
 「長崎に『青年塾』を作ってはどうか。そこで御書を学び、後継の人材を育てよう。建物も全部、青年の手で作るんだよ」
 大分で長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」を発表した直後、熊本を訪問した折の言葉である。
 師は弟子を信じた。その成長を。その勝利を。ゆえに、あえて厳しい訓練の機会を与えたのだった。
 師の提案は、電撃の如く県下に伝わった。
 即座に建築士、大工、左官、瓦職人、水道工、ガス管工、庭師ら、必要な技術を持つ友が名乗り出た。
 場所は諫早文化会館の敷地内。休日返上で腕を振るった。資材が足りなければ良質な廃材を探した。
 石一つだけでも運びたいと婦人や壮年も勇んでやってきた。
 皆、師弟に生きる喜びと誇りに弾んでいた。
 半年後の57年(82年)5月23日、名誉会長が諫早文化会館を初訪問。だが会館より先に、隣接する「長崎池田青年塾」へ。のべ3200人が携わった弟子の心意気の結晶である。
 「青年塾の完成、おめでとう! 開所式をやろう」と名誉会長。
 その後、青年塾の中へ。佐藤政春九州総合青年部長(現・副会長)が、意を決したように名誉会長に一枚の紙を差し出した。
 九州男子部の愛唱歌「火の国『青葉の誓い』」の草案である。弟子の誓いを、楠木正成・正行の父子の姿に託したものだった。
 「1番は良い歌詞だ」と名誉会長。やがて推敲が始まった。青年塾の仏間で。同志が営む喫茶店で。移動の車中で――推敲は4度、5度と重ねられた。
 作曲は、青年部の有志が昼夜を分かたず奮闘した。
 27日午後、青年塾の前で行われた、「青葉の誓い」の発表会。
 開会直前、名誉会長が「師弟共戦だから、2番の『晴れの門下の』は『門下と』にしよう」と提案。さらに、来賓に「今から私が最も信頼する青年が歌います」と告げた。
 弟子の心は燃えた。
   
 厳父は覚悟の 旅に発つ 生い立て君よ 民守れ 
友よいざ征け 黎明だ  ああ青葉の誓い 忘れまじ 夜明けの世紀だ 黎明だ  ああ青葉の誓い 忘れまじ
 
 平和の原点の地・長崎の空へ響かせた父子の曲。いよいよの大闘争へ、あの日の誓いを果たす時は、常に「今」である。