【第22回】 青春の誓い燃ゆる 奈良  2010-6-17

常勝関西の支柱たれ
 
 春の陽光に包まれた若草山の山頂。池田名誉会長は万葉の都・奈良を一望していた。昭和47年(1972年)4月のことである。
 あの「大阪の戦い」の渦中にも、青年部員と共に足を運んだ。
 青春の勝利、師弟の勝利を、固く心に誓った思い出深き天地である。
 名誉会長は、若草山の山焼きを通して、難に遭うごとに輝きを増す信心強き人生を――と呼びかけたことがある。
 「焼かれても、萌え出る若草のごとく!」
 それは、奈良が歩んできた広布の歴史そのものだ。
 大きく中傷の落書きをされた自宅の塀を、誉れとして、そのまま消さずに折伏に走り抜いた草創の同志がいた。
 その心意気に、奈良の全同志が続いた。信念と誠実の対話で、無理解の壁を次々に砕いていった。
 師弟の誓いが、奈良の勝利の春を開いていったのである。
 「再び、私が指揮を執るよ」「さあ、行こう!」
 昭和56年11月、名誉会長は、第1次宗門事件で苦しめられた五条市に車を走らせた。
 県境の真土峠。偶然、近くを通った五条の同志と固い握手を。「祈っています。必ず勝つんだよ!」
 その後、友の営む食堂で地元の同志と懇談。
 橿原市の明日香文化会館の会合では、青年に指針を示した。男性は、社会で勝ち抜く力をもて。女性は、福運をつけよ
 次に向かったのは、田原本町青果店。2階は個人会場。名誉会長の来訪を聞きつけた同志が、自然と集まってきた。
 悩みや報告に、一心に耳を傾ける名誉会長。
 夫を亡くした婦人に「父子桜」の揮毫を。地元の支部長には、「地域の拠点を大事にしていくのです」「拠点に集う同志の功徳は、すべて会場提供者の功徳になります」――。
 行く先々で、激励に次ぐ激励。
 同志にとって、待ち望んだ師との出会い。その一つ一つが、前進の力に変わっていった。
 4年後の昭和60年4月。奈良青年平和文化祭(奈良市中央体育館)は、創価の勝利宣言となった。
 大地に伸びゆく若芽のごとき青年たち3100人の大熱演。役員を含めると、5000人を優に超えた。
 県知事や市長をはじめ多数の来賓が出席し、「若い力の躍動に、希望の灯を見た」と感嘆した。
 名誉会長は大きな拍手を贈り語った。
 
 青春とは王者なり! 苦闘は自身の財産なり!
 
 17回目の奈良訪問となった平成9年(1997年)5月。名誉会長は平城宮跡のすぐ近くに開館した奈良国際友好会館を初訪問。同志に仏法は勝負と語り、「戦」の字に言及した。
 もともと「戰」と書く。中には「口」の字が二つある。真実を語りに語れ! 声を武器に戦うのだ!
 この指導のまま、奈良は全力で弘教に挑む。5年間で、実に3割増という未曾有の拡大の歴史を築いた。
 本年4月には、地元2紙に名誉会長の寄稿が掲載された。各界の識者から大きな反響が寄せられる時代となった。
 名誉会長は語った。
 「広布を進めるためには関西が大事です。その大関西を支えるのが奈良です」
 奈良の発展を見れば、関西の広布の伸展がわかる。常勝関西の支柱・奈良――名誉会長が、愛する同志に示した誉れの使命である。  
 
 大関西  支えゆかなむ  奈良の山  千軍万波の  広布の城かな