【第23回】 本陣の太陽の母 総東京婦人部 2010-6-27
強盛な祈りが諸天を動かす
ドアを開けると、一番奥の席に、池田名誉会長夫妻の姿があった。
同志が営む駅前の喫茶店。名誉会長夫妻の来訪を知った婦人部の友が、次々とやってきた。夫妻は「よく来たね!」「ご苦労さま!」と、温かく包み込むように迎えた。
昭和54年(1979年)7月31日、東京・目黒の自由が丘。“奮闘する友に励ましを”との婦人部員の懇請に応え、即席の“懇談会”が始まったのである。
会長辞任から3カ月。悪侶らの謀略の嵐は続いていた。皆が歯がみし、耐えに耐えていた。
だが目の前の師は、厳然としている。一人一人の言葉に深く頷き、じっと耳を傾ける。そして力強く語りかけた。
「皆さんが幸せになることが広宣流布です」
「大樹のように10年、20年と、しっかり地域に根を張るんだよ」
誰が何と言おうが、師弟の不滅の光跡は、東京の至る所に輝く。時流が変わろうと、師弟の絆は変わらない――東京の婦人部は、この一点を、我が身と我が心で深く知っている。
後に名誉会長は、東京婦人部の代表に語った。
「全世界の広宣流布の中心が東京である。東京の婦人部が盤石であれば、全東京が盤石であり、世界が盤石である」
「強い東京、無敵の東京をつくろう!」
古い家々も残る山の手の住宅街。
昭和44年(1969年)3月9日。香峯子夫人が、東京・世田谷の大原、羽根木を訪れた。
地元の友の案内で、座談会場へ。すると夫人が、ふいに予定の道から逸れた。「奥様、そちらは……」。声をかけた友に、微笑みが返ってきた。
「この道も全部、歩いて、“福運の道”にしましょう」。香峯子夫人は心に題目を唱えつつ、歩んでいたのである。
「こんにちは!」。香峯子夫人が会場に到着。ほどなく質問会となった。
――池田先生が会長になって変わったことは。
「何も変わりません。ただ、家にいることが、ずっと少なくなりました。“家にいたら学会の発展が遅れる”と。いったん戻れば、今度は我が家が“本部”になります。会長ですから当然です」
夫人の飾らない人柄と語り口。率直な質問が続く。
――自分の宿業が、なかなか消えません。
「宿命転換とは、階段を一歩一歩、上るだけではなく、断崖絶壁に立たされて“これ以上、もう一歩も引かない”と決めた時にこそ、できるものではないでしょうか」
――学会婦人部として大切なことは。
「賢明さだと思います。それには題目を唱え、自分と戦うことです。“題目だけは、お母さんにかなわない”と一目置かれる存在になれば、すべてがうまくいきます」
朝10時、世田谷に来た香峯子夫人。八つの会場を回り終える頃には、とっぷり日が暮れていた。
ある婦人は、香峯子夫人が噛みしめるように語った言葉を忘れない。
「“戸田先生のもとで、生涯、共に学会のため、社会のために尽くそう”と約束し、主人と結婚しました。その心は、今も変わっておりません」
香峯子夫人は、総東京婦人部の「一員」であり、麗しき「模範」である。
荒れ模様の天気が続いた東京。だが、この日は一転して、柔らかな春の光に包まれていた。
平成19年(2007年)3月7日、八王子の東京牧口記念会館で本部幹部会が行われた。
好天・無事故を祈っていた第2総東京婦人部の「晴天会」。幹部会終了後、名誉会長からの言葉が届く。
「太陽も味方にしたんだから、すごいね。勝利の瑞相だ」
強盛な祈りで諸天を動かし、大宇宙を味方にする――これが本陣の母の誇りと確信である。
「全部、祈ってくれているのは婦人部だ。婦人部の祈りが一番、頼りになる」「いい東京になった」と名誉会長。
きたる7月12日は「総東京婦人部 幸福・勝利の日」。師弟の正義の大空に、勝利の太陽が昇る日である。