【第24回】 関西戸田記念講堂と共に 大阪 2010-7-4

関西はわが胸中の炎
 
戸田第2代会長の名を冠する講堂は三つある。牧口初代会長と2代会長が獄中闘争を貫いた東京・巣鴨、2代会長の故郷・北海道の厚田。そして、大阪の豊中である。
昭和51年(1976年)の祥月命日の4月2日、他に先駆けて、豊中に「関西戸田記念講堂」が落成した。かつてボウリング場だった建物は、いす席で約4000人を収容。戸田会長の願業75万世帯に由来する75本の桜が植樹された。
大阪の地から病人と貧乏人をなくしたい!――戸田会長は、大阪の庶民を心から愛した。その熱願を受け、若き池田名誉会長は大阪中を駆けめぐった。その師弟の魂魄を留めた大殿堂である。
「この講堂はまさに『関西城』だね」「恩師の偉業を顕彰するにふさわしい」
名誉会長は、30回にわたり訪問。全関西の同志がこの地で、師との絆を結んだ。全国から友が集い、広布への誓願を新たにした。5月5日を「創価学会後継者の日」と決定したのも、同講堂であった(51年)。金星のごとき人材群が、ここから世界へ躍り出た!
名誉会長作詞の関西の歌「常勝の空」が、この講堂で電撃的に発表されたのは昭和53年7月17日、「大阪の日」記念幹部会の席上である。縦5メートル横20メートルの巨大な幕が壇上を飾った。関西鉄人会の力作。歌詞と中之島の中央公会堂が染め抜かれていた。皆が驚嘆した
愛する関西 勇み立て
爆発的な歓喜の歌声。師弟一体の音声が、講堂を揺るがした
名誉会長は詩の一節の意味を語った。
愛する関西とは、私の胸中の炎です」
家族愛にも勝る同志愛。最前列にいた草創の同志を壇上に招き、自身の隣の席へ。手を握り懐かしそうに励ました。「あなたは堺の人でしたね」「健康第一で生き抜いてください」
――昭和32年7月3日に起こった大阪事件。権力の謀略だった。名誉会長は無実の罪で勾留された。師匠のために、愛する学会員を守るために、自身が犠牲になる覚悟だった。
その心を知る香峯子夫人は12日、心配する同志に、はがきを送っている。
「主人も前々より覚悟の上の事。私も常々、結婚当初より言われて居りました事ですし、全く罪がないのですので、心配もせずに居ります……唯、最後の最後迄、戸田先生の御意志にそえる事のみ願って居ります」
最後の最後まで、師と共に――夫人の祈りに、関西の同志は続いた。
17日に名誉会長は出所。その夕、2万人が集った中央公会堂での大阪大会。雷雨の中、「戦いは負けたらあかん!」と皆、正義の炎を燃え上がらせた。
「常勝の空」の歌詞には苦楽を共にした同志への思いが、随所に迸っていた。
歌が発表された幹部会の後、名誉会長は関西の代表と懇談。当時の青年部幹部は語っている。
「池田先生は、愛する関西だけは、草創の心を忘れないでほしい。大阪事件で心配をかけた同志に安心してもらうために、今の青年部はもっと苦労し、もっと訓練を受け、21世紀の晴れ舞台で乱舞できる人材に育ってほしいと甚深の思いを託されたのです」
後年、同講堂で名誉会長は師子吼した。
「信念を同じくする民衆の連帯は強い。また、いやまして強くしていかねばならない。その民衆のつながりの強固さ、たくましさが、常勝関西の強さである」
めぐりくる7・17「大阪の日」。今、再び、庶民の団結の底力を、満天下に示す時がきた!