【第37回】 青春の古戦場 山口 2010-10-22
「弟子が勝つ」使命の舞台
関門橋から見下ろす海峡は、晩秋の陽の光を映して眩しいほどに輝いていた。
「いよいよ山口だね」
池田名誉会長が言った。
車の窓をいっぱいに開けて、懐かしい山河にカメラを向けた。
平成6年(1994年)11月25日午後2時半過ぎ、名誉会長を乗せた車が下関文化会館に到着した。
「ついに来たよ! 38年ぶりだね」
すぐに館外を一周し、館内へ。名誉会長夫妻を描いた大きな絵も掲げられ、友の喜びが伝わってくる。
2階のパノラマ模型の前で、名誉会長の足が止まった。そこには、小さな一個の建物が置かれていた。
東陽館――広布史に燦たる山口開拓指導で最初の拠点となった旅館であった。
昭和31年(56年)10月9日の朝。下関駅に着く人波の中に、28歳の池田青年はいた。「射るような輝く眼に、初対面でしたが先生とすぐに分かりました」と当時の同志は振り返る。
この年の夏、大阪で"まさかが実現"の勝利を刻んだ名誉会長の、次の決戦の舞台が、この山口だった。
明治維新の電源地。幾人もの首相を世に送った日本の要衝でありながら、広布の伸展は遅々としていた。
「大作、行ってくれるか」――戸田第2代会長は愛弟子に総指揮を託した。その第一歩の地が下関だった。
「ここは古戦場だよ」
下関文化会館の大広間で、名誉会長は言った。
同志の代表と勤行。「来られなかった人たちのことを祈りました。会えなかった方によろしく」と伝えた。青春を捧げた山口が栄えゆくことこそ、名誉会長の祈りであり、願いであった。
開拓指導を終えた直後の昭和32年(57年)1月28日。池田青年の日記には、こう綴ってある。「宿命打開と、広布の布石に、全力傾注の闘争せり。その実証、いつの日に出づるや」
計13回にわたる山口訪問は、“10倍の拡大”を共に戦った同志の「勝利の実証」を確かめる旅でもあった。
昭和52年(77年)5月21日のこと。時間は午後8時半になろうとしていた。
伝えたのは香峯子夫人だった。周囲に聞くと、車は防府会館から3分ほどの場所を走っているという。
「行こう!」。名誉会長は決断した。友が家路に着こうとしている所に、車が滑り込んだ。
「あっ! 先生!」
驚き、沸き返る友の中に飛び込む名誉会長。勤行の後、オルガンで「厚田村」などの曲をプレゼントし、こう永遠の指針を贈った。
――平成6年に下関を訪れた翌日。山口栄光総会で、名誉会長は詠んだ。
天も見よ おお山口の 斗争は 君の日記か わたしの宝か
「弟子が勝つ」燦たる歴史が残された天地――それが山口だ。栄光と使命の不思議なる国土なのである。