【第4回】 失敗は終わりではない ㊤2010-10-23

苦しみも楽しみに変えられる!
 
SGI会長
音楽は「若き心の戦友」「戦う魂の盟友」
ハンコック氏
人生は自他共のコラボレーション
ショーター氏
進歩、前進、向上の喜びを分かち合う
 
池田 20年前の10月、人権の大英雄マンデラ氏を、私は多くの青年たちの歌声とともに熱烈に歓迎しました。氏は、ご自身の長き獄中闘争が、この諸モ剌たる若人の熱唱で報われたとまで、喜んでくださいました。
 音楽は、若き心の戦友であり、戦う魂の盟友です。
 音楽を携えて前進しゆく青春は、皆に快活な勇気と希望を贈ります。
 音楽隊や鼓笛隊、また合唱団などで健闘す友も、この鼎談を楽しみにしてくれています。今回は、その若き読者から寄せられた質問「二人の音楽との出あい」からうかがいます。
ハンコック 「音楽との出あい」となると、いつのことでしたか……遠い昔なので、なかなか思い出せません(笑い)。ただ幼いころ、わが家では母が、子どもにクラシック音楽を聴かせることを決めていました。わが家には常に音楽がありました。これは、アフリカ系アメリカ人社会独特の文化的傾向であったと思います。
池田 音楽は、母からの贈り物だった──。ハービー少年にピアノを買ってくれたのも、お母さんのウィニーさんでしたね。ピアノが好きなことを見通して、大変な家計の中、お父さんを動かし(笑い)、7歳の誕生日にプレゼントしてくれた。
 お母さんは、ハービーさんをはじめ、3人のお子さん方を全員、大学へも進学させてくれましたね。
ハンコック そうです。どうして母に、そんな芸当ができたか、いまだにわかりません。奇跡としか言いようがないんです。母は、私たちのために、一生懸命に、やりくりしてくれました。
        ?
池田 どんな貴婦人よりも尊い姿です。母たちの戦いは、まさしく「奇跡」の物語そのものですね。
 日蓮大聖人は、「母の御恩の事 殊に心肝に染みて貴くをぼへ候」(御書1398㌻)と仰せです。
 ハンコックさんやショーターさんたちが、世界の婦人部のために、「母」の曲を劇的に演奏してくださったことがありましたね(2002年5月)。
 私と妻は、皆さんの偉大な母上を偲びながら、聴かせていただきました。
 ショーターさんが誕生されたのは、1933年。大恐慌から立ち上がるアメリカ市民の息吹を体現したかのように、ジャズが人気を博し、世界的にも広がっていく時代に育ちましたね。
ショーター わが家でも、父が仕事から帰宅すると、いつもラジオから流れる音楽の演奏を聴いていました。私自身は小さいころから、絵を描くのは好きでしたが、音楽には、それほど興味はありませんでした。
池田 ウェイン少年の絵は、地元の美術コンテストで1位に輝き、新聞で紹介されたこともあったそうですね。高校でも、美術を専攻されたと聞きました。音楽の道を歩み始めたのは、いつ、どのように?
ショーター アメリカで一番古い芸術専門の公立高校に学びました。私が音楽に出あったと言えるのは、この高校の2年生の時です。15歳でした。
 当時、興味のない授業の時は、学校に行かないこともありました。なぜなら、映画館へ行くほうが面白くなっていたのです(笑い)。
 街には数軒の映画館がありました。そこでは毎日、映画の幕間《まくあい》にジャズ演奏などのステージショーを上演します。有名なジミー・ドーシー楽団やディジー・ガレスピー楽団も、この劇場で演奏していました。この音楽に私はすっかり魅了されてしまったのです。学校を休む言い訳に、ニセの診断書を作ったこともあります。実在しない医師の名を書き、両親の名前も使いました。
ハンコック 今の真面目なウェインからは想像できないね!(爆笑)
ショーター ある日、私が教室にいると校内放送が鳴り響きました。
 「ウェイン・ショーター、ただちに副校長室へ来なさい!」と。
 副校長室に一歩入ると驚きました。そこに父と母がいたからです。私は、恥ずかしくて真っ赤になりました。
 副校長のミズ・ハミルトンが「なぜ、ずる休みをしたの? 授業をサボってどこへ行っていたの?」と尋ねました。
 私は、ハミルトン先生と両親に、映画館に行っていたことを告白しました。「あそこでは、音楽ショーも上演していますね。あなたは、あのショーが好きなの?」と彼女は言いました。私がそうだと答えると、ハミルトン先生は受話器を取り、アキレス・ダミーコという先生を呼び出しました。
 ダミーコ先生が入ってくると、ハミルトン先生は「ダミーコ先生は、大変、規律に厳しい人で、わが校の音楽部長です。厳しい罰則を加える前に、訓練のために、あなたを、この先生のクラスに入れることにしました」と言うのです。そして「あなたのご両親はとても素晴らしいので、学校側としてはできるだけ、ご両親の意向に沿いたいのですよ」とつけ加えました。