【第4回】 失敗は終わりではない 2010-10-23

池田 両親は、ショーターさんを信じて、愛情深く見守っておられたのですね。その親心を察するとともに、両親に申し訳ないと反省するショーターさんの心を汲んで、学校の先生は新しいチャンスを開いてくださった。
 私も、創価学園の草創期、進級が危ぶまれていた何人かの高校生と面談したことがあります。彼らは創立者が成績不振の生徒と会うと聞かされていたようで、気まずそうな顔で部屋に入ってきました(笑い)。
 「緊張する必要はないよ。叱るために会ったんじゃないからね。ぼくは、君たちを勇気づけたいだけなんだ」
 私がこう語ると、皆、安堵の表情を浮かべました(笑い)。それから一人一人の状況を丁寧に聞いていったのです。「先生。勉強、頑張ります!」と決意する学園生もいました。若き生命は本来、伸びようとしている。その伸びゆく命を心から愛し、信じて応援するのが大人の役目です。後年、この生徒たちの中から大学教授も出た。皆、立派になりました。創立者として、これ以上、嬉しいことはありません。
ショーター 私も両親と先生方に本当に感謝しています。最初の授業で、ダミーコ先生はモーツァルトについて語り、交響曲第40番の1小節をピアノで弾きました。そして「どんな音楽にも主題があり、その主題への回答が続いていく。どの文章にも主語と述語があるように」と語りました。
 しかし、生徒が授業の秩序を乱すようなことがあると、彼は「今は私が話しているのだ!」と言い、手に持った黒板消しを投げつけるのです。私は内心、これは楽しい授業だ!と喜びました(笑い)。ダミーコ先生は生徒の間で評判の教師でした。
池田 私たちの先師である牧口常三郎先生は、教育は、生命という無上の宝珠を対象とする最高至難の技術であり、芸術であると言われました。人を育てることは、絶妙な心の芸術であり、究極の創造です。
 お2人のジャズの大先輩であるマイルス・デイビスさんも、多くの青年を実演の中で育てられましたね。
ハンコック ええ。マイルスとの共演中、私はミスとしか言いようのない音を出してしまったことがあります。すると、その瞬間、マイルスは、私のミスを何とも素晴らしい和音に変えてくれたのです。まさに魔術師の技でした。あまりの驚きに、私は数秒間、身動きもできませんでした。
 マイルスは、私の演奏を「批判」しなかったのです。「さて、このミスをどう利用してやろうか」と考えたのでした。こうした一瞬の機転もまた、仏法で説かれる「変毒為薬」に通ずるのではないでしょうか。
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池田 見事な手本ですね。アメリカの経済学者レスター・サロー博士と会談した折、博士は米国のベンチャー企業が幾度かの失敗を乗り越えて成功していることに触れ、日本再生の鍵として「もっと『失敗に寛容な社会』にならなくては」と提言されていました。挑戦しなければ、失敗もないかわりに創造もない。失敗こそ「創造の母」です。だから「勇気」が大切なのです。
 「勇気」の一念を炎と燃やせば、自他共に必ずすべてを活発な向上と創造のエネルギーヘ転じられます。
ハンコック 深く理解できます。
 ジャズにおいては、演奏者が、自分として限界まで才能を開発し尽くし、それ以上、前に進めないという試練に突き当たることがあります。その時、「信頼」の境地を開くことによって、突破口が開けるのです。マイルス・デイビスや、ウェイン・ショーターがそうです。その境地は、もはや「批判」など恐れない、超越した境地です。
 そこでは、演奏者は、自身を深く「信頼」し、他の演奏者を「信頼」します。仲間がミスを犯したと気づいても、それを逆手にとって、価値あるものに変えてみせるのです。この「信頼」に必要なものも「勇気」ですね。
池田 ハンコックさんご自身が、その達人の境地を勇敢に開いてこられたことも、よくわかります。
 ところで、ウェイン青年が、最初に手にした楽器は何でしたか?
ショーター クラリネットです。当時、父が聴き入っていた音楽の中で、有名なバンド・リーダーのベニー・グッドマンやアーティ・ショウは、クラリネット奏者でした。グレン・ミラー楽団も、後にクラリネットを加えました。どの楽団も、クラリネットが加わると、音色がすっかり変わって、ロマンチックな音になったのです。そこからあの有名な「イン・ザ・ムード」も生まれました。
 街の大きな楽器店の前を通りかかる時、いつも横目でクラリネットを眺めては、通り過ぎました。私はクラリネットを、あたかも「人間」のように感じていました。
池田 私が創価学会の音楽隊を手作りで結成したのは、1954年のことです。皆が反対でした。戸田城聖先生だけが、「大作がやるんだったら、やりたまえ!」と理解してくださった。私はお金を工面して楽器を贈りました。その時の楽器の中にも、クラリネットがあったと記憶します。
 名奏者だったべニー・グッドマンは、世界的に人気を博しましたね。文化大王として名高いタイのプーミポン国王が、若き日、グッドマンと共演された歴史もうかがっています。
 日本でクラリネットの名曲といえば、「鈴懸の径」が有名です。以前、横須賀の友が「文化音楽祭」で披露してくれたことも懐かしい。わが創価学園創価大学の友も、クラリネットの名演奏を聴かせてくれます。
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ショーター そうでしたか。ダミーコ先生は、クラシック音楽の講義で、こう語ったことがありました。
 「クラリネットは、いわば木管楽器部門のバイオリンである。いや、さらに上空を飛翔する楽器なのだ」
 私にとってクラリネットは、スーパーマンのようでした(笑い)。
 私は母と祖母にねだり、ついにクラリネットを手に入れました。
 その楽器店の店主は、オーケストラの楽団長で、この方から楽譜の読み方や楽器への指の当て方など、演奏の初歩を教えてもらいました。
ハンコック ウェインのことだから、夢中で練習したのでしょう?
ショーター もちろん! 毎日、平均して6時間は練習したよ。
池田 やはり努力こそ力です。身近な先生を見つけ、その門を叩いて、基本を一歩一歩、学んでいったことも、大成への礎となりましたね。
 ところでショーターさんは、高校卒業後、まず、お父さんの勤めるミシン工場で働かれましたね。
ショーター ええ。もうこれ以上、学校に行く必要はないと考え、父の職場であるミシン工場で働きました。
 1年間働いて、お金を貯めました。
 1年経った年の暮れのこと、あることに気がつきました。できあがったミシンは工場から出ていくのに、それを作る自分はいつまでも工場に居残っている。私もどう進んでいくかを真剣に考えないといけないと。
 私は母に言いました。「ニューヨーク大学の入学試験を受けてみたい」
 入試を終えて、大学のホールを歩いていた時、自分が進むべき人生の方向が、いくつか思い浮かびました。
 高校の歴史の教師は「君は歴史を専攻しなさい」と勧めてくれましたし、ニューヨーク大学に入学した後も、哲学の教授が哲学専攻を勧めてくれたことがありました。しかし、大学では、何をするにせよ、決めるのは自分自身です。結局、私は、音楽の道を選んだのです。
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ハンコック 自分で自分の人生を決める。これは、ウェインの演奏スタイルを彷彿させます。
 音楽の道を選び。、大学に進学したことを、両親も喜ばれたでしょう。
ショーター ええ。私には両親を喜ばせたいという願いがありました。特に、母の喜ぶ顔を見たかった。
 当時、父も母も、昼と夜、二つの仕事をかけもちして働いていました。2人とも、夜はダウンタウンでビル清掃の仕事をしていたのです。
池田 苦労されているご両親を、何としても喜ばせたい──その心が、ショーターさん自身の人生を大きく開いたのではないでしょうか。
 御書には、「聖賢の二類《にるい》は孝の家よりいでたり何《いか》に況《いわん》や仏法を学せん人・知恩報恩なかるべしや」(同192㌻)と説かれております。とともに、「母を喜ばせたい」「人を喜ばせたい」という心──これこそ真の芸術の原点ではないでしょうか。芸術の道とは、最高の人間の道だからです。
ショーター ありがとうございます。私は親だけでなく、自分自身も「喜ばせる」必要がありました。それは進歩、前進、向上の喜びです。池田先生がおっしゃる通り、私はそれを親孝行を通じ実現できたのです。
 私は音楽の道を選択することで、単に生活のために働くのではなく、それ以上の目標へ向かいました。それは私にとって新しい挑戦でした。
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池田 若い時から、自分の希望通りの進路を歩める青年は少ない。とくに、今は雇用の問題も深刻です。思いもよらぬ仕事をしなければならないことも多々あるでしょう。
 しかし、戸田先生は青年によく言われました。「まず、自分の今の職場で全力をあげて頑張ることだ。『なくてはならない人』になることだ」と。そこから、必ず道は開かれるのです。
 仏法では、「人のために火をともせば・我がまへあき(明)らかなるがごとし」(御書1598㌻)という譬えがあります。自分だけのことを考えて悶々としていても、力は発揮できません。
 青年ならば、親孝行のため、職場の発展のため、友の幸福のため、そして、新しい平和と文化の創造のために、皆と力を合わせて、若き生命を思い切り燃焼させていくことです。そこに前途を照らす光が生まれます。
 ショーターさんは本年、ヤンキースタジアムに2万5千人が集って行われた母校ニューヨーク大学の卒業式で、晴れの名誉博士号を贈られました。
 受章に際し、後輩たちを励まされ、「失敗は終わりではない」と。この味わい深い言葉に、私は続けたい。「それは、次の勝利の始まりである」
ハンコック ウェインと私は、いつも仲間たちに、人生にはコラボレーション(共同作業)の機会がたくさんあると語っています。
 池田先生は、SGIのメンバーであると否とを問わず、世界中の人と対話を重ね、平和の連帯を広げてこられました。誰にも使命があり、どんな人も、その人にしかできない貢献をすることができるのです。私たちは、仏法を基調とする社会・文化運動である広宣流布にとって、一人残らず必要な存在です。人々がこの事実に目覚める時、真に平和で豊かな社会建設のプロセスが始まると思うのです。