小説「新・人間革命」 母の詩 26 11月1日

明るく、忍耐強かった母。どんな時も、笑顔を失わなかった母――。
 山本伸一は、その母が、声を押し殺し、背中を震わせて、すすり泣く後ろ姿を目にしたことがあった。
一九四七年(昭和二十二年)五月、長兄・喜久夫が、ビルマ(現在のミャンマー)で戦死したとの公報が届いた時である。
 悲嘆に暮れる母の姿に、伸一は、残酷な戦争への激しい憤怒が込み上げてきた。とともに、子を思う愛の深さを、まざまざと感じ、兄の分まで自分が孝行しなくてはと、固く心に誓った。
 やがて、戸田城聖に師事するようになった伸一は、家を離れ、ひとり暮らしを始めることになる。
戸田の事業が行き詰まると、給料の遅配が続き、服も靴も満足に買うことができなくなった。穴の開いた靴下を、自分で繕って履くような日々が続いた。
 家に帰って、もっと親孝行もしたいとの、強い思いもあった。
 だが、伸一は、心に決めていた。
 広宣流布の指導者は、戸田先生しかいない。自分が先生の事業を支えなければ、広宣流布もまた、破綻をきたすことになる! 今が、自分にとっても、先生にとっても、また、学会にとっても正念場なのだ!
 御聖訓には、「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり」(御書一五二八ページ)と。自身が、正法を持ち、強い信心に立つことが、父母への最高の親孝行になるとの仰せである。
彼は、この御文を胸に刻んで、苦闘の青年時代を生き抜いてきたのである。
 ひとり暮らしを続ける伸一を、母は、よく気遣ってくれた。
 家の者に託して、外食券や菓子を届けてくれたこともあった。外食券というのは、戦中、戦後の主食統制下で、外食する人に対して、米穀の配給の代わりに発行された券である。
 洗濯物についても、どうしているのかと、陰で心を配り、助けてくれたこともあった。
 また、伸一と峯子の結婚を、誰よりも、喜んでくれたのも母であった。