小説「新・人間革命」 母の詩 41 11月19日

わが子を、戦争で失うことなど、絶対にいやだ。戦争には、断固として反対だ――それは、すべての母の思いであろう。
 しかし、それが、平和思想となって、深く広く根を下ろしていくには、自分だけでなく、子どもを戦場に送り出す、すべての母や家族の、さらには、戦う相手国の母や、その家族たちの苦しみ、悲しみを汲み上げ、生命尊厳の叫びとして共有していかなければならない。
 仏典では、わが子のみを愛おしみ、他人の不幸を意に介さない愚を、鬼子母神の姿を通して戒めている。
 ――鬼子母神は、王舎城の夜叉神の娘で、鬼神・般闍迦の妻である。彼女には、五百の鬼子がいたという。
鬼子の数は、千、一万とする説もあるが、ともかく、たくさんの子をかかえていたのであろう。彼女の性質は暴悪で、人の子を取って食うことを常としていた。
 釈尊は、そんな鬼子母神を戒めるために、最愛の末子である嬪迦羅を隠してしまう。
 鬼子母神は、血相を変えて嬪迦羅を捜し回った。しかし、見つからなかった。
 彼女は、釈尊のもとに行き、わが子の安否を尋ねた。そこで釈尊は、鬼子母神の悪行を諭し、三帰五戒(注=4面)を授け、終生、人の子を取って食べることをしないと誓わせ、隠していた嬪迦羅を返したのである。
 鬼子母神のわが子への愛は、エゴイズムの延長にすぎなかった。
しかし、彼女は、わが子がいなくなったことで、子を失う人の苦しみを知ったのだ。いわば、自分のエゴイズムに気づき、人と同苦できる素地がつくられたのである。
 鬼子母神は、法華経の陀羅尼品では、十人の羅刹女と共に、法華経を読誦し、受持する人を擁護し、安穏を得さしめ、わずらいを除くことを誓っている。悪鬼神から諸天善神となるのである。
 わが子を思う心は、万人の幸せを願い、守る心となって昇華したのである。それは、人生の大目的に目覚めた母の、偉大なる人間革命の姿を象徴するものともいえよう。
 
■語句の解説
 
 ◎三帰五戒
 「三帰」とは、仏・法・僧の三宝に帰依すること。
 「五戒」とは、不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒という五つの戒を守ること。
 この「三帰五戒」を実践することが、仏法者の基本とされた。