小説「新・人間革命」 母の詩 42 11月20日
近年、育児放棄をはじめ、児童虐待が急増しつつある。その要因には、“育児に縛られず、自由でありたい”という強い願望と、親としての責任感の欠如がある。
本来、子育ての責任を自覚し、自分のエゴイズムをコントロールする心を培うことこそ、親になるための必須条件といえよう。
子育ては、確かに労作業ではあるが、人間の生命を育む、最も尊貴な聖業である。そのなかに、最高の喜びがあり、生きがいもある。また、子どもを育てるなかで、親も、学び、磨かれていくのである。
核家族化が進むなかでの子育てには、夫婦の協力が不可欠であることは言うまでもない。特に、共働きの場合は、妻の側にばかり過重な負担がかからないように、役割分担を明確にしていくことも必要であろう。
しかし、シングルマザーであれば、一身に育児を担わなければならないケースが多い。その負担は、並大抵のものではあるまい。
育児という労作業に勝ち抜く、強い心をつくるには、まず、「子どもをいかなる存在ととらえるか」、いわば、「どういう哲学をもつか」が極めて重要になる。
御書には「法華経流布あるべきたね(種)をつぐ所の玉の子出で生れん目出度覚え候ぞ」(一一〇九ページ)と仰せである。
仏法では、すべての人間は、「仏」の生命を具え、偉大な使命をもって、この世に出現したととらえる。
つまり、子どもは、未来を担い立つ、崇高な人格をもった、使命深き鳳雛と見る。ゆえに、仏法からは、決して、親の所有物などというとらえ方は生まれない。
ある学会員の夫妻は、子どもが誕生した時に、こう思ったという。
“よくぞ、こんな私たちのところに生まれてきてくれた。ありがとう! 使命ある大切な子だ。大事に、大事に育てなければ……”
わが子を、「仏」の生命を具えた、使命の人と見て、立派な人材に育ってほしいと願うからこそ、ただ、甘やかすのではなく、しっかりとした“しつけ”も、していけるのだ。