小説「新・人間革命」 母の詩 48 11月27日

 九月十三日に営まれた山本伸一の母・幸の本葬儀の際も、伸一の心を悩まし続けていたことがあった。台風十七号が、各地で豪雨をもたらし、被害を広げながら北上していたのである。
 被災地域は刻々と拡大し、十三日には、沖縄、九州、四国、中国、近畿、東海、関東甲信に及び、家屋の浸水や流失、死傷者、行方不明者も、増大の一途をたどっていた。
 創価学会では直ちに、救援本部を設置するとともに、被災各地の会館などにも救援本部を設け、全力で救援活動にあたった。
 方面や県の幹部らが被災現場を回り、激励を重ねるとともに、食料品、衣類、医療品、日用雑貨などの救援物資を被災者に届けた。
 伸一は、本葬儀の日にも、全国各地から寄せられた被災報告をもとに、さまざまな指示を出し、救援のあらゆる手を打ち続けた。
彼は、第三代会長に就任した時から、人びとの苦悩がある限り、自分には、本当の休息日はないと、深く心に決めていたのである。指導者に、その決意なくして、広宣流布という大願の成就は、あり得ないからだ。
 そして、九月十四日には、静岡指導を開始し、熱海市の東海研修所(現在の静岡研修道場)を訪れたのである。ここには、この年の三月に、初代会長の牧口常三郎の遺徳を顕彰するための牧口園が開園していた。
 創価の先師・牧口は、一九四三年(昭和十八年)七月六日、弘教旅の途次、静岡の下田署に出頭を求められた。そして、東京に移送され、投獄されたのである。不敬罪治安維持法違反の容疑であった。
同じ日、弟子の戸田城聖も、東京で特高警察に連行されている。大弾圧の嵐が、襲いかかったのだ。
 牧口は、高齢の身でありながら、過酷な取り調べにも、微動だにしなかった。正法正義の旗を掲げ、取り調べの席でも、堂々と法を説き、信念を貫き通した。
しかし、翌四四年(同十九年)の、秋霜の季節を迎えた十一月十八日、東京拘置所の病監で、七十三歳の生涯を閉じたのである。