小説「新・人間革命」 厳護 7 12月15日

初の「牙城会の日」となった一九七六年(昭和五十一年)九月一日、東京・創価大学の中央体育館では、「牙城会」の祝賀の集いが行われた。その席上、「牙城会」の臙脂色のユニホームが発表されている。
 この日、九州・長崎の地で、五十六歳の誕生日を迎え、「牙城会」の青年たちの成長を心から祈る一人の婦人がいた。五月に牙城会員であった息子を亡くした宮坂初音である。
 彼女の長男・勝海は、生命の燃え尽きるまで、牙城会員の誇りを胸に、信心の大道を、まっしぐらに突き進んでいった。
 宮坂勝海は、男子部大ブロック長(現在の地区リーダー)として学会活動に励む一方、牙城会員としても活躍してきた。前年の十一月からは、新たに完成した長崎文化会館での任務に就いた。
 「すばらしい文化会館をつくっていただいた。会館を、同志を守り抜くぞ!」
 それが、彼の口癖であった。
 会館にかかってくる電話の応対も、はつらつとして、さわやかであった。最初に出た電話の声が、そのまま、学会の印象となる。どこまでも、きびきびと、丁寧に、誠実に応対するんだと、心に決めていたのだ。
 また、「着任中に、会館を訪ねてくる人が、最初に顔を合わせるのは『牙城会』だ。つまり、ぼくたちは、学会の顔だ。だから、すがすがしい笑顔の応対が必要だ」と、常に皆と語り合っていた。
 彼は、来館者を心から大切にした。忘れ物をしたという電話が入り、館内をくまなく捜し、届けたこともあった。館内や建物周辺の点検も、人一倍、丹念に行った。
 もし、不審物があって、発見できなかったら、大事故につながりかねないとの、学会厳護の思いからであった。
 宮坂は、「牙城会」で受けた教育や訓練を、自分の哲学とし、信念としていた。そこに、精神の継承もなされるのである。それがなければ、どんなにすばらしい教育も、本当の意味で、身につくことはない。