小説「新・人間革命」 厳護 13 12月22日

青年の育成に全力を注ぎ、常に青年が一切の活動をリードしてきたのが、創価学会の伝統である。つまり、「青年学会」たり得てこそ、未来永遠の発展もあるのだ。
 山本伸一は、二十一世紀まで四半世紀を切った今こそ、いよいよ青年の育成に、本格的に力を注がねばならないと考えていた。
 新世紀には、その青年たちが広宣流布の本舞台に躍り出るとともに、学会精神を継承し、同志を守り抜く中核となるからだ。
事実、このころ、「牙城会」等であった青年の多くが、二十一世紀の今日、「王城会」として、会館と学会の厳護に大活躍しているのである。
 伸一が、「牙城会」の青年と、本部周辺を巡回した日から、何日かしたころ、彼は本部の廊下で、一人の青年と、ばったり出会った。この年の十一月四日に、「創価班」の初代委員長となった加藤正秋である。
 伸一の姿を見るなり、加藤は言った。
 「先生! 『輸送班』は『創価班』となって、皆、新しい決意で張り切っております」
 「聞いているよ。ところで、君に話したいことがあったんだよ。『創価班』の本格的な出発となる総会を開こうよ。
第一回『創価班総会』だ。日にちは、年明けの一月六日――この日しかない。私も出席します。まだ、松の内だが、君たちと一緒に、一年のスタートを飾りたいんだよ」
 「はい! お願いします」
 加藤は、満面の笑みで答えた。
 「山本先生から、『一月六日に、創価班総会を開催しよう』とのお話をいただいた」――連絡は、直ちに、全国に流れた。
 加藤は、考え続けた。
 なぜ先生は、一月六日と言われたのか
 最初は、単に伸一のスケジュールの都合によるものと思った。しかし、この日の歴史を調べると、衝撃ともいうべき、大きな感動を覚えた。
二十六年前に当たる一九五一年(昭和二十六年)のこの日に、伸一は、戸田城聖の自宅に呼ばれ、公私にわたる一切の後事を託された日であることを知ったからだ。