小説「新・人間革命」 厳護 15 12月24日

創価班委員長の加藤正秋は、山本伸一の『若き日の日記』や小説『人間革命』を読み、一月六日は、伸一が戸田の後継者であることを深く自覚した、歴史的な日であることを知ると、体中に電撃が走る思いがした。
 先生は、その意義深き日に、第一回創価班総会を開催しようと言われた。先生は、私たちに、後継者として、創価学会の一切を担って立つことを期待されているのだ。
なんとしても、「創価班」の力で、学会の新時代を切り開かなければ……
 伸一が、総本山への登山会参加者の輸送を任務とする男子部の「輸送班」を、「創価班」と命名したのは、一九七六年(昭和五十一年)の十一月二日であった。
 「輸送班」の歴史は、五二年(同二十七年)十月、第二代会長・戸田城聖が、総本山への月例登山会を開始した時から始まっている。
青年が、すべての行事の運営を担い立つのだ!との自覚のもと、男子部員が登山会で、参加者数の掌握や、駅のホームでの整理などに当たることになり、「輸送班」が発足したのだ。
 当時は、貸し切りの団体専用列車ではなく、一般乗客に交じっての登山会であり、「輸送班」の苦労は、大変なものがあった。
 参加者全員が無事に乗車したか”“座席を確保できなかった人はどれだけいるか”“体調の悪い人はいないか”“一般の乗客とトラブルなどは起きていないかなどに、細心の注意を払わなければならなかった。
 このころは、乗客のなかには、学会の登山会だと知ると、誤解と偏見から、侮蔑するような態度をとったり、中傷を浴びせたりする人もいたのである。
そのなかで、「輸送班」の青年は、柔和忍辱の微笑と、当意即妙の英知と、毅然とした態度で、同志を守り、安全輸送を貫いてきた。
 登山会が歴史を重ねるにつれ、「輸送班」の充実が図られていった。その育成、指導に全力を傾けてきたのが、伸一であった。