小説「新・人間革命」 厳護 17 12月27日

一九六九年(昭和四十四年)秋には、山本伸一の提案で、男子部の幹部養成機関として、第一期三千余人からなる「輸送班大学校」が開校した。
 伸一は、男子部の中核となっていくうえで、「輸送班」などでの教育は、不可欠であると感じていた。それは、彼自身が自らの体験を通して、深く実感してきたことであった。
 五四年(同二十九年)五月に、雨をついて行われた、青年部五千人の総登山も、十月の青年部一万人の総登山も、その一切の指揮を執ってきたのは、伸一であった。
 五月の総登山では、車両事故等によって、バス数台が不足し、急遽、列車輸送に振り替えるという緊急事態も発生した。
そのため、到着時刻が大幅に遅れ、儀式の開始も、定刻の四時間半後にしなければならなかった。
 しかし、冷静沈着に対応し、一つ一つ、困難を切り抜けてきた。そうした体験が、彼の貴重な財産となったのである。
 運営を担うことの責任の重さも、物事は詰めに詰めておかなければならないことも痛感した。机上のプランと現実との違いも思い知らされた。
予期せぬ事態のなかで、的確な判断を下すには、どうすればよいかも学ぶことができた。それが、広宣流布の指揮を執るうえで、どれほど大きな力となったか、計り知れないものがあった。
 「どんな仕事をするにせよ、実際に学ぶことができるのは現場においてのみである」(注)とは、ナイチンゲールの至言である。
 伸一は、次代を担う人材を養成するために、男子部幹部と検討を重ね、「輸送班大学校」を発足させた。
 当初、研修期間は半年であった。メンバーは、「輸送班」の候補生として、毎月一回、輸送の具体的な実務と、小説『人間革命』などを通して、学会精神を学んでいった。
 伸一は、この「輸送班」「輸送班大学校」を、さらに発展させ、学会の未来を担う、男子部の本格的な一大人材育成機関をつくろうと、構想を練っていたのだ。
 
■引用文献 注 「病人の看護と健康を守る看護」(『ナイチンゲール著作集 第二巻』所収)薄井坦子・田村真・小玉香津子訳、現代社