【第8回1】 桜梅桃李の個性<上> 2011-1-14

ハンコック氏 音楽は独自の音をもつ戦い
 
 池田SGI会長 「春のはじめ御喜び花のごとくひら(開)け」(御書1575ページ)
 これは、日蓮大聖人が弘安四年(一二八一年)の正月、青年門下・南条時光のお母さん(上野尼御前)に送られた御手紙の一節です。
 この時、南条家は試練と戦っていました。「熱原の法難」に際し、わが身を顧みず同志を守り、経済的な圧迫も受けていた。
 さらに、時光の凛々しき弟が十六歳の若さで急逝するという深い悲しみがありました。
 その中を、大聖人の御指導を支えに、母を中心として、厳寒の冬を耐え抜き、毅然と決意の新春を迎えていたのです。一家が「冬は必ず春となる」(同1253ページ)との実証を示していったことは、歴史にも明らかな通りです。
 ショーターさんもハンコックさんも、苦難を勝ち越えて、勝利の花を咲かせてこられました。その魂の凱歌を、今年も力強く奏でてください。
 
 吹雪に胸張る友に、希望と勇気を贈りながら!
 
 ハービー・ハンコック ありがとうございます。池田先生のご期待に応えられるよう、全力を尽くしていきます。
 音楽も、何が起ころうと、それを活かして、春のように花を咲かせていくことができます。どんなことも、音楽の創造を織りなす一端としていけます。こうした創造の力を、私たちが持っていることを自覚していきたいですね。
 
 ウェイン・ショーター そうです。人々は、自らが創造者であることを自覚しなければなりません。また、壮大な無限の創造性と責任は、規律と相俟って真価が発揮されることを知らなければなりません。
 自由や、構成、創造性、規律のための作業において、私たち一人一人が、一個の人間としてリーダーシップをとっていく使命があります。
 偉大なジャズドラマーであった、アート・ブレイキーは、「自分自身のことが分かり、自分自身に目覚めなければならない」という言葉を好んで口にしました。
 よく、「君は自分がわかってきたかい?」と問いかけていました。
 彼は、「演奏の技術が熟達したら、今度は、独自の色を出していくんだ」とも言っていました。
 
 池田 まさしく、お二人の演奏は、錬磨し抜いた音色が鮮烈ですね。
 仏法には、「桜梅桃李の己己の当体を改めずして」(同784ページ)という御文があります。
 すなわち、桜も梅も桃も李も、寒さに負けず、時とともに自らの花を爛漫と咲かせます。他の花を羨んだり、嫉んだりなどしない。それぞれが、ありのままに、個性豊かな花を色とりどりに開花させていきます。
 人間も皆、尊極なる生命を持っています。その生命を、最大に輝かせ、自分らしく尊き使命の花を咲かせ切っていく。これが「自体顕照」です。そして、互いに尊敬し合い、学び合い、励まし合って、幸福と歓喜の花園を広げていくのです。ここに妙法の世界があります。日本の詩人が歌った通り、「みんなちがって、みんないい」のです。(金子みすゞ著「私と小鳥と鈴と」、『さみしい王女』所収、JULA出版局)
 
 ハンコック 「桜梅桃李」を音楽的な観点から言えば、それは、音楽家の個性であり、まさに、音楽家一人一人の音色のことになると思います。つまり、一人一人が「独自の音」を持っているということです。
 仏法に照らせば、すべての人の個性が独特の音を持っていることを深く理解できます。仏法を実践することによって、私たちは、自分ではない誰か別の存在になるわけではありません。私たちは、あくまでも同じ自分自身です。
 
きょうも生命に元朝の太陽を
 
ショーター氏 座談会には差異を結び合う力
 
 池田 戸田先生は、個性について、よく言われました。
 「どんな立派な人間でも、短所がある。また、どんな癖のある人間でも、長所がある。そこを活かしてあげれば、皆、人材として活躍できるのだ」と。
 ですから、音楽に例えれば、それぞれの持ち味の最高の音を鍛え上げながら、互いに活かし合って、人々の心を打つ名演奏を成し遂げていくことに通ずるでしょう。
 
 ショーター はい。「桜梅桃李」の譬えには、実に豊かな智慧があります。
 自分と外見が違ったり、行動が異なる人間に対して先入観を持つ「偏狭な人々」がいますが、私は最近、このような人々に、間違った差別観を捨てさせるさまざまな方法を示すために、この信仰や公演旅行を、活用できないだろうかと考えるようになりました。
 どうすれば、差異を受け入れることの素晴らしさを示せるのか。
 私は、一つの方法を見つけました。バンドで公演旅行に出る時、私は、よく「ほかに誰か一緒に旅をする人はいないか」と呼びかけます。なぜなら、多様であればあるほど、私たちの平和と愛を求めての運動は成功することを、私は知っているからです。
 人々は、多種多様な私たちを見て、「小型版の国連のようだ」と言います。
 
 ハンコック 本当にそうだね。
 それぞれの音楽家にとって、独自の音を持つためには、開発を要します。単に楽器を手にすれば、自分の音が持てるというものではありません。それは、葛藤して、自分で見出して、創り上げるべきものです。
 私たちが自分自身の真の生命を顕現するためには、それを妨げている障害を打ち払っていく作業が大事なのではないでしょうか。
 仏法には、「発迹顕本」(迹を発いて本を顕す)という法理もありますね。
 
 池田 その通りです。常に、自らの本源的な生命に立ち返って、生まれ変わったように新出発していくのです。
 戸田先生は教えてくださいました。
 「行き詰まりを感じたならば、大信力を奮い起こして、自分の弱い心に挑み、それを乗り越え、境涯を開いていくことだ。それが、我々の月々日々の『発迹顕本』である」と。
 ですから、妙法に生きる私たちは、毎日が久遠元初であり、毎日が元旦です。今日も、わが生命に赫々たる元朝の太陽を昇らせ、無明の闇を打ち破っていける。
 その暁鐘こそ、南無妙法蓮華経という音律なのです。
 
 ハンコック 池田先生が教えてくださった通り、私たちが勝利者となり、智慧を使い、自身の環境を成長の糧と転ずる方法を見つけ出すことによって、この「無明」という迷いを打ち破り、「元品の法性」を顕すことができます。
 
 池田 そうです。御聖訓には、「一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし」(御書384ページ)と説かれています。
 わが生命を明鏡の如くに磨き上げる――ここに、たゆみなき仏道修行の意義があります。
 ショーターさん、ハンコックさんが率先されている、自分と異なる他者との対話・交流も、自他共に生命の明鏡の輝きを増していく力ですね。
 
 ショーター ありがとうございます。私は、公演旅行の中で出会った人々に、これまで自分が体験した偏見や、相手を受け入れない狭い心について語ってきました。
 ただし、そこでは、偏見、嫌悪、先入観といった言葉は使わずに、そうした問題の壁を破った物語を紹介します。そして、幸福を得た段階にまで話をもっていきます。
 この人間の差異を結び合うことについて語る上で、SGIの座談会での体験発表は、とても効果的であり、これほど誠実で心に触れる瞬間をもたらしてくれるものはありません。
 
 池田 お二人は、地域でも自宅を座談会の会場に提供してくださっています。多忙な中、積極的に座談会に出席されていることもうかがっています。以前、関西の座談会に入っていただいた時も、皆、大喜びでした。
 学会の座談会は、法華経に説かれる「人華」のごとく「人間の花」「人間性の花」を咲き薫らせていく対話の園です。「人華」という美しい言葉は、南アフリカマンデラ元大統領とお会いした折にも、話題になりました。
 私は、ハーバード大学での二度目の講演で、釈尊がどんな人たちとも自在の対話をなしえたのはあらゆるドグマ(教条、独断)や偏見、執着から自由であったからであると指摘しました。
 そして釈尊の言葉を通し、人の心に刺さっている差異へのこだわりという「一本の矢」こそ、克服されるべき悪であると強調しました。それは人間の外ではなく、内面にあります。
 人間の心にある「差別の意識」「差異へのこだわり」を克服してこそ、開かれた対話が可能になるからです。
 
 ハンコック 自分の文化と異なるものを受け入れられることは、実に重要だと思います。それは「包容」という智慧であり、開放性、他者への尊敬、自分の外にあるものへの尊敬の心から生じる智慧です。
 
 ショーター マイルス・デイビスも、アート・ブレイキーも、偏屈で偏狭な音楽家ではなく、学者や、青年の素晴らしさから、進んで学ぼうとした点で、「開かれた心」の持ち主でした。二人とも、バンドメンバーとして、十代の若者たちを雇い、また、他文化の音楽や音楽家を取り入れ、用いていました。
 私も彼らと同じ思いです。
 
 池田 誰もが同じ「人間」です。
 ヨーロッパ科学芸術アカデミーのウンガー会長も「人間が『生理学上、世界中のだれとでも、驚くほど同じである』」ことを強調されていました。
 そして、「この生理学上の同一性のうえに、文化や宗教の差異が構築されている。そうである以上、文化や宗教の違いを根本的対立だと解釈することは間違いではないでしょうか」と訴えておられました。まったく同感です。
 博士とは、宗教間や文明間の対話の重要性を大いに語り合いました。
 「異なるもの」「自分にないもの」を尊敬できる人、他者の個性を尊重できる人には、新しい発見がある。未来への展望が開けます。その人が、自分の個性を輝かせることができるのです。 ((下)は明日付に掲載予定)