小説「新・人間革命」 灯台 16 5月9日

中山勇は、経理の専門学校に通い始めたものの、経理の知識が皆無なため、戸惑うことばかりであった。
夜学で机を並べる人の多くは、税理士や公認会計士をめざす、三十代、四十代の人たちである。最初は、とても、ついていけそうもないと思った。
 彼は、自分を叱咤した。
 〝今からあきらめてどうするんだ! ぼくは、学会の男子部じゃないか! 山本先生の弟子じゃないか!〟
 ――「すべては、志操にかかっている。おのれ自身の向上につとめよ! そうすれば、すべてが改良されるであろう」(注)とは、ドイツの作家トーマス・マンの警句である。
 中山は、学会活動も一歩も引くまいと思った。平日は、毎日、午後五時に退社すると、専門学校に駆けつけた。六時から三時間、経理をはじめ、経済、税務などを学び、それから男子部員の激励に回った。
 苦闘あってこそ、人生の大成はある。
 中山が経理の勉強をしていることは、上司の耳にも入っていた。やがて彼は、人事で工場から経理部門に異動した。会社は、経理のできる人材を嘱望していたのだ。
 彼の向上心は、勢いを増した。単に経理にとどまらず、どうすれば、同業他社と比べて、企業の安全性、収益性、発展性が図れるかなど、いろいろな角度から勉強を重ねた。
 学会では、常に「青年が一切の責任を担って立て」と指導され、さまざまな運営を任され、訓練されてきた。全体観に立って物事を進めていくことも、教育されてきた。職場でも、その訓練と教育が生かされていった。
 一九七一年(昭和四十六年)、中山は、二十六歳の若さで、経営管理室の係長になったのである。学会活動を通しての人間陶冶の力を、彼は痛感するのであった。
 そして、七七年(同五十二年)二月二日の社会部の勤行集会で、さらに、職場の第一人者になることを、深く決意したのだ。
 この勤行集会からほどなく、中山は、三十二歳で経理課長となっている。