小説「新・人間革命」 灯台 25 5月19日

日本政府は、穀物の世界的な高騰への対応策として、麦や大豆などに生産奨励金を支払い、国内生産を拡大することや、輸入先の多元化、輸入穀物の備蓄などを打ち出した。
 こうした事態に対して、これまでの日本の農業政策を疑問視する声も起こっていった。
 戦後の日本農業は、農地改革で自作農となった、多くの農業従事者によって支えられてきた。手に入れた農地の規模は小さかったが、地主に小作料を払う必要がないため、希望に燃えて、農作に取り組んできた。
 彼らが、食糧不足に苦しむ時代の、日本人の食生活の担い手となってきたのだ。危機を乗り切る力は、常に民衆の活力にある。
 政府も、食料の自給率を高めるため、増産政策を推進した。なかでも、米は、最も重要な穀物として保護し、買い上げ価格も、流通も、政府の統制下にあった。
その結果、政府が所得を保障してくれる稲作に、農家は積極的に取り組んでいったのである。
 日本が高度経済成長を迎えるころから、農村人口は都市に流出し始めた。同時に、専業農家は減り、兼業農家が増えていった。
 〝所得倍増〟が叫ばれていた時代である。都市部の俸給生活者の賃金は、年々上昇していった。政府は、それに合わせて、生産者米価も引き上げていった。
 一九六〇年(昭和三十五年)に六十キロで四千百六十二円だった生産者米価は、六八年(同四十三年)には、八千二百五十六円と、倍増したのである。 
 農家は、稲作の面積を拡大し、機械を導入するなどして、生産の向上に取り組んでいった。米の収量は増大し、六七年(同四十二年)からは、三年連続で、千四百万トンを超える大豊作を記録した。
 ところが、既にこのころ、国民の食生活は変化し、米の消費は減少傾向にあった。大豊作は、米の供給過剰を招き、政府の古米在庫量は累増し、七〇年(同四十五年)十月末には七百二十万トンになった。
これは、全国に配給する米の約十四カ月分の量であった。