小説「新・人間革命」 灯台 26 5月20日

米が余剰になったことから、政府は、古米の在庫処理の一方、価格も自由に決めて売買できる、自主流通制度を導入した。また、生産調整を行うために、新田開発を抑制し、野菜などへの作付け転換を進めたのだ。
 農家は減収となった。農業だけでは暮らしが成り立たないため、専業農家は、ますます減少した。出稼ぎに行く人や、兼業農家に切り替える家が、年々、増大していった。
 この高度成長期には、日本では、国際分業が主流となっていた。工業製品や農作物などを、国家間で分業し、互いに必要な物を安く輸出入しようという考え方である。
 日本は、工業製品の輸出に力を注ぎ、麦や大豆などの穀物を、大量に安く輸入していった。その結果、麦や大豆を生産する日本の農家は、激減していったのである。
 さらに、一九七二年(昭和四十七年)、田中角栄内閣が、「日本列島改造論」を掲げてスタートする。
それは、農地法を廃止し、農地政策を根本から改め、各地に人口二十五万人規模の都市をつくり、高速交通網で結ぼうという構想であった。
太平洋ベルト地帯に集中した工業や、大都市に集中した人口の分散を図り、過疎と過密を解消する計画であったが、都市整備、工業優先の施策といえた。
 農業関係者の間に、危機感が走った。
 そこに、世界的な食糧危機が起きたのだ。 そのなかで、七三年(同四十八年)十月、農村部が誕生するのである。
 日蓮大聖人は「人は食によって生あり食を財とす」(御書一五九六㌻)、「白米は白米にはあらず・すなはち命なり」(同一五九七㌻)と仰せである。
 山本伸一は、人間の命をつなぐ食の生産に従事する農村部は、人類の生命を支え、守る、極めて重要な部であると、考えていた。
 〝メンバーの智慧と営農の実証は、先細りの様相を見せ始めた農業の、未来を開く力となる。さらに、それは、日本、そして、世界の食糧問題を解決する糸口ともなろう〟
 伸一の農村部への期待は大きかった。