小説「新・人間革命」 灯台 34 5月30日

 団地部のメンバーは、一九七三年(昭和四十八年)十月の結成以来、わが団地を〝人間共和の都〟にと、懸命に活動に励んできた。
 方面や県、区で勤行会や協議会も活発に開催され、地域に信頼を広げていくことを確認し合った。
 そして、団地に住む人びとと交流を深め、さまざまな悩みを抱えた友人を励ましながら、連帯の輪を広げてきたのである。
 日蓮大聖人は、「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去って彼に行くには非ざるなり」(御書七八一㌻)と仰せである。
 信心に励む自分がいるところが、成仏得道の場となるのである。したがって、彼方に理想郷を求めるのではなく、わが居住の地を最高の仏道修行の地と定め、そこに寂光土を築いていくことこそが、われら仏法者の戦いなのである。
 日本で、団地の建設が本格的に始まったのは、戦後のことである。
 焦土と化した都市部を中心に、日本全土で四百万戸以上の住宅が不足し、その解消のために、まず、東京の港区や新宿区に団地が建てられていった。そして、高度経済成長と軌を一にして、団地は日本全国へと広がっていった。
 当初、団地の間取りは決して広くはなく、畳なども通常の規格よりも小さい、いわゆる〝団地サイズ〟であった。
 しかし、木造の家屋が、大多数の時代にあって、コンクリートの外壁に、ステンレス製の流し台のあるダイニングキッチンなど、新しい設備を施した団地は、極めてモダンな、都市生活の見本とされていた。
 夫婦と子どもからなる、核家族化が進んでいただけに、間数は多くなくとも、居住者の満足度は高かった。
 特に若い世代には、〝団地に住みたい〟という願望をいだく人が少なくなかった。
 団地の居住者は、「団地族」と、もてはやされ、一九五八年(昭和三十三年)には、それが流行語にまでなるのである。