説「新・人間革命」 灯台 35 5月31日

団地は、民間のアパートなどと比べ、環境や諸設備も整っていることから、入居希望者が多く、一九六一年(昭和三十六年)には、日本住宅公団の東京・阿佐ケ谷市街地住宅の申し込みは、四千二百倍を超えた。
 団地の建設地は、次第に都会から郊外へと移るとともに、大阪の「千里ニュータウン」や、東京の「多摩ニュータウン」など、団地を中心とした計画的な都市づくりも行われていった。
 当初、団地は、四、五階建てが多かったが、十四階建ての高層棟を擁する「高島平団地」(東京・板橋区)なども登場した。そこでの生活は、多くの人びとにとって、まさに、〝高嶺の花〟であった。
 団地生活は、人びとの憧れではあったが、その一方で、近所付き合いがあまりないことなどが、問題点として指摘されてきた。
 団地での〝孤独死〟も起きていた。
 一九七四年(昭和四十九年)一月、東京・渋谷区にある団地の浴室で、老婦人が死亡しているのが発見された。既に、亡くなってから一週間が経過していた。
 また、この年八月、神奈川県の団地の四階に住む男が、「ピアノなどの音がうるさい」と、三階に住む母子三人を殺害するという事件が起こっている。〝憧れ〟の団地での、騒音問題や人間関係が、にわかにクローズアップされることになったのである。
 この事件の第一審判決には、次のようにある。
 「犯行は被害者方と被告人との間に意思の疎通があれば十分防止し得たともいえる」
 団地部のメンバーは、こうした事件に心を痛めつつ、自分たちの果たすべき使命を強く自覚していったのである。
 〝私たちの団地を、温かい心と心が通い合う人間郷にしなければ……〟 
 身近に起こっている問題から目を背けるのではなく、それを自身の問題ととらえ、解決のために全力を尽くす――それが、立正安国の実現をめざす仏法者の生き方である。