小説「新・人間革命」 灯台 41 6月7日

山本伸一は、団地という集合住宅に住む人たちの心がよくわかった。彼も、団地ではなかったが、青年時代にアパートで暮らした経験があるからだ。
彼が実家を出て、東京・大田区大森にある「青葉荘」というアパートに移り住んだのは、戸田城聖のもとで働き始めて四カ月が過ぎた、一九四九年(昭和二十四年)五月であった。 まさに、青葉の季節に、新生活をスタートしたのだ。
アパートは二階建て三棟で、九十世帯ほどが住み、伸一が入ったのは、その三号館一階の部屋であった。
勤行している時、隣室の人から、小さな声でしてくれと、注意を受けたこともあった。
集合住宅では、ことのほか、周囲への配慮が必要なことも学んだ。
また、ある時、滝の夢を見た。滝に打たれ、寒くて震えが止まらない夢であった。
あまりにも寒くて目を覚ますと、布団がびしょ濡れであった。
上の部屋の住人が、水道の蛇口を閉め忘れたのか、天井から布団の上に、水がしたたり落ちてきていたのだ。
伸一が、青年として心がけていたのは、明るく、さわやかなあいさつであった。同じアパートに住んだのは、決して偶然ではない。
深い縁があってのことだ。だから、近隣の人びとを大切にし、友好を結ぼうと思った。
彼は、隣室の子どもたちを部屋に呼んで、一緒に遊んだこともあった。
自分の縁した一家が、幸せになってもらいたいと、その親には仏法の話をした。やがて、この一家は、信心を始めた。
伸一は、自分の部屋で座談会も開いた。
何人かのアパートの住人や近隣の人たちにも声をかけ、座談会に誘った。そのなかからも、信心をする人が出ている。
「この世に、あたたかい心ほど力づよいものがあるでしょうか」(注)とは、「華陽会」の教材ともなった『小公子』の言葉である。
周囲の人びとの幸せを願っての友好の広がりは、おのずから、広宣流布の広がりとなっていくのである。