小説「新・人間革命」 灯台 42 6月8日

山本伸一は、「青葉荘」で三年間を過ごし、一九五二年(昭和二十七年)五月に峯子と結婚する。
結婚当初、三カ月ほど、東京・目黒区三田の借家に住むが、八月には、大田区山王のアパート「秀山荘」に移った。
赤い屋根の二階建てで、十世帯ほどが住んでいた。
伸一たちが借りたのは、六畳二間の一階の部屋であった。
このアパートには、五五年(同三十年)の六月に、大田区小林町(当時)にローンで小さな家を購入し、転居するまで、三年近くにわたって住むことになる。
ここにいた時、長男の正弘、次男の久弘も生まれている。また、伸一が、青年部の室長として、学会の重責を担うようになるのも、この時代である。
「秀山荘」に転居した伸一は、すぐに名刺を持って、近所にあいさつに回った。
和気あいあいとした人間関係を、つくっていきたかったのである。
正弘が成長し、走り回るようになると、妻の峯子は、隣室や上の部屋に気を使い、なるべく早く寝かしつけるようにした。
彼の部屋には、実に多くの人が訪れた。
当時、伸一が、峯子と語り合ったのは、「どなたが来ても温かく迎えて、希望を〝お土産〟に、送り出そう」ということであった。
じっくりと話を聴き、時には、一緒に食事をしたり、レコードを聴くなどしながら、励ました。語らいは、時として深夜にまで及ぶこともあった。
翌朝、峯子は「昨夜は、遅くまで来客がありまして、すみません。うるさくなかったですか」と、近隣の人びとにあいさつして回った――。
いずこの地であれ、誠実さをもって、気遣いと対話を積み重ねていくなかで、友好の花は咲き、信頼の果実は実るのだ。
わが団地部の同志も、そうしたこまやかな配慮を重ねながら、周囲に思いやりのある言葉をかけ、献身的な振る舞いを通して、麗しい人間関係を築くために努力しているにちがいない。
伸一は、全精魂を注いで、団地部のメンバーを励まさねばならないと思った。