小説「新・人間革命」 灯台 46 6月14日

釈尊の分身の諸仏を娑婆世界に集めるには、国土を浄め、仏が集うにふさわしい仏国土にしなければならない。
釈尊は、眉間から光を放って、無数の国土にいる仏たちを見る。それぞれの国土では、諸仏、菩薩が法を説いていた。
宝塔が涌現したことを知った諸仏は、釈尊多宝如来にお会いしたいと、喜び勇んで馳せ参じるのだ。
釈尊は、諸仏を迎えるために、娑婆世界を変じて清浄にした。
大地は瑠璃で彩られ、宝樹をもって荘厳され、諸仏一人ひとりのために、「師子の座」が用意された。しかし、諸仏の数は膨大で、とても収まりきらない。
そこで釈尊は、四方(東、西、南、北)・四維(西北、西南、東北、東南)の八方それぞれの、二百万億那由他という無数の国々を浄める。
その国土は、すべて一つにつながり、広大なる仏国土が出現する。
だが、続々と集って来る諸仏は、それでも収まらなかった。釈尊は、さらに、八方それぞれの二百万億那由他の無数の国々を浄める。
この三度目の浄化で、娑婆世界と八方の四百万億那由他もの国々が浄められ、一つの広大無辺の仏国土が出現し、宇宙から集い来た分身の諸仏によって、満ちあふれる。
まさに、法を求め、師匠のもとに弟子が勇んで馳せ参じる、宇宙大の師弟のドラマである。
そして、宝塔の扉が開かれ、釈尊多宝如来が並座するなか、聴衆が空中に導かれ、虚空会の説法が始まるのだ。
天台大師は、この「三変土田」について、『法華文句』で、三昧によると解釈している。
三昧とは、心を一つに定めて動じることのない境地、一念をいう。つまり、国土の浄化は、一念の変革によることを表している。
日蓮大聖人は、釈尊の一代聖教は「皆悉く一人の身中の法門にて有るなり」(御書五六三㌻)と仰せである。
わが身を離れて仏法はない。法華経の一切は、己心の生命のドラマであり、大宇宙も、宇宙を貫く根源の法も、わが生命に収まるのだ。