小説「新・人間革命」 灯台 47 6月15日

天台大師は、さらに、釈尊が、三度にわたって娑婆世界等を変革したことを、人間の迷いである、見思惑、塵沙惑、無明惑の「三惑」に対応させている。
見思惑とは、見惑と思惑のことで、惑は迷いである。見惑は、真実を見極めようとしない、誤ったものの見方をいう。
権威、権力にひれ伏し、外見で人を見下すことや、誤った固定観念、偏見もまた、見惑といえよう。
思惑は、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)の三毒などによる迷いである。
煩悩に翻弄され、エゴイズムを肥大させ、自然環境を破壊し、争いを生み出すのも、この思惑のゆえである。
御書には、『法華文句』の「瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り」(七一八㌻)の文が引かれている。
この文には、三毒と、刀兵(戦争)、飢餓(飢饉)、疾疫(伝染病)の因果関係が明らかにされている。戦争も、飢饉も、伝染病も、その根源は、人の一念にこそある。
「三変土田」の第一の変浄は、戦争や飢餓等の災いをもたらす、見思惑を破ったことを表しているといえよう。
第二の変浄で破られる塵沙惑とは、菩薩が人びとを救済していく時に直面する、無量無数の障害である。
ある意味で、人のための崇高な迷いといえる。それを破って突き進んでいけば、すべては歓喜へと変わっていく。
さらに、無明惑とは、生命に暗いことから起こる、根本の迷いである。これこそが、成仏を妨げる一切の煩悩の根源となるのだ。
それに対して、わが生命も、また一切衆生の生命も、尊厳なる「宝塔」であると悟ることが法性である。第三の変浄で、この無明惑も破られるのである。
つまり、「三変土田」とは、生命の大変革のドラマであり、自身の境涯革命なのだ。
自分の一念の転換が、国土の宿命を転換していく――この大確信を胸に、戸田城聖は、敗戦の焦土に、ただ一人立ち、広宣流布の大闘争を展開していったのである。