小説「新・人間革命」 灯台 56 6月25日

東北の詩人・宮澤賢治は友に書き送った。
「もしあなたがほんたうに成功ができるなら、それはあなたの誠意と人を信ずる正しい性質、あなたの巨きな努力によるのです」
第一回「農村・団地部勤行集会」を契機に、農業復興の決意を新たにした農村部員の活躍は目覚ましかった。
羊蹄山の麓の北海道・真狩村から参加した本岡明雄は、ユリ根の有機農法栽培に着手した。
消費者の安全を第一に考えた農業に取り組もうと思ったのである。
ユリ根は、小指の先ほどの種球根から食卓に上るまで、六年を要する。彼は、忍耐強く、創意工夫を重ねて栽培に成功。
ユリ根の生産量日本一の真狩村から、品質第一位の表彰を何度となく受けることになる。また、北海道社会貢献賞も受賞する。
兵庫県但東町(当時)で畜産業を営む森江正義は、以前は、大阪の自動車整備工場で働いていたUターン青年であった。
家業の農業を継いだものの、当初、周囲の目は冷たく、〝都会の敗残兵〟と言われもした。
但東町は、優れた品質の和牛として有名な但馬牛で知られる。森江は、一念発起し、但馬牛の飼育に取り組んだ。
積極的に講習会に参加し、勉強を重ねた。
さらに、若手の後継者たちに呼びかけ、「自営者学校」を立ち上げ、畜産の基礎から、血統や肉質の見分け方なども学び合った。
但馬牛の伝統を守りつつ、新しい道を開きたいと考えたからだ。
また、家畜人工授精師の免許の取得などにも挑んだ。〝牛より先に食事はしない〟と心に決めて、仕事に励んだ。
勉強、勉強、また勉強の日々だった。
畜産を始めて三年、育てた子牛が町の品評会で、最優秀の一等賞一席になった。その喜びのなか、勤行集会に参加したのである。
彼の牛は、品評会で五年連続して、一等賞一席を獲得するのである。
後年、森江の飼育した牛は、県指定の種牛として登録されるなど、彼は、但馬牛の第一人者として、地域に実証を示していくことになる。