小説「新・人間革命」 福光 26 2011年 10月1日

山本伸一は、鈴村アイと菅田歌枝に、力を込めて語った。
「あなたたちには、生涯、自らの行動を通して、皆に学会精神を伝え抜いていってほしいんです。
私と一緒に、文京支部員として戦った、同志ではないですか!」
二人は、かつて伸一が支部長代理をしていた、文京支部の婦人部員であった。
県指導長の鈴村は、福島県須賀川の出身で、生来、明るく、活発な性格であった。
教員養成所を出て、国民学校などで教壇に立ってきた。
二十三歳の時に、浜通りの勿来で米穀小売業を営む、鈴村裕孝と結婚した。店も繁盛し、順風満帆の船出に思えた。
女学校時代から、「朗らかさん」と呼ばれてきた彼女の周りには、いつも笑いが絶えなかった。
しかし、長男を出産して間もなく、肺結核にかかってしまったのである。まだ、結核で亡くなる人が多かった時代であった。
死の不安におびえながら、入院生活を続けた。
八カ月後に、ようやく退院できたが、不眠症に悩まされ、さらに、持病の胃腸炎も悪化していった。
精神的にも疲れ果てて、とうとうノイローゼになってしまった。生きていることが、苦しくて、苦しくて仕方なかった。
今度は、「どうすれば、命を絶てるのか」と考え、断崖にたたずんだこともあった。
全く生気を失い、やせこけて別人のようになった鈴村アイの口から出るのは、苦悩のため息ばかりであった。
家から笑い声が絶えて久しく、いつも、陰鬱な静寂に包まれていた。
夫の裕孝も、病んだ妻をかかえ、仕事と子育てに追われ、心身ともに疲弊していった。妻と自分の運命を呪った。
アイが病気になって、八年がたった一九五六年(昭和三十一年)の十月、裕孝は、近所に住む兄の家に、たまたま車で炭を届けた。
兄は、少し前に創価学会に入会し、この日、その兄の家で座談会が行われていたのだ。