小説「新・人間革命」 薫風 31 2012年 3月5日

中森富夫は、佐賀県で所帯をもち、父の経営する炭鉱に勤めた。酒屋は、妻の恵美子が病弱な母と共に切り盛りした。
母親は、胃腸病で寝たり起きたりの生活を続けていた。
中森の家は、日蓮正宗の旧信徒であったが、嫁いだ姉の貞枝が夫と共に学会に入会した。
そして、胃腸病で悩んでいた夫が、信心に励み、健康を回復するという体験をつかんだ。
姉は、その話を、母親にしたのだ。
「母さん、うちにも御本尊様はあるばってん、ただ、御安置しとるだけじゃいかんよ。お題目ばあげて、人にも仏法ば教えたら、功徳が出るとよ。
生命力も涌現さして、病気を治すこともできるとよ。大聖人様の言われた通りの信心ば実践し、それば教えてくれるとが学会よ」
中森の母親は、思った。
『信心で治るもんなら、私も学会に入って、本気で信心してみようかね』
中森も、彼の父親も、学会には、あまり良い印象はもっていなかったが、自分だけ入るなら、いいだろうと、静観することにした。
入会した母親は、日々、懸命に唱題した。
日増しに元気になり、一カ月もするころには、床を上げることができた。そして、喜々として、学会の会合や弘教にも出かけるようになった。
その姿を見て、一九五七年(昭和三十二年)一月に、中森富夫の妻・恵美子が入会した。
彼女は、結婚して三年間、子どもができないことが、悩みであったのである。
信心を始めてほどなく、彼女は身ごもった。妻は、信心への確信をもった。
中森は妻から、父は母から、盛んに入会を勧められた。
彼らは、二人の現証を目の当たりにしていただけに、拒否する理由も見つからず、その年の五月に入会したのである。
御聖訓には、「現在に眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もありやせん」(御書一〇四五p)と仰せである。
『実証』に勝る説得力はない。