小説「新・人間革命」 薫風44 2012年 3月20日

一九五六年(昭和三十一年)十月から、山本伸一は、山口開拓指導を開始した。
当時、酒田英吉は、山口県玖珂町(現在の岩国市内)に泊まり込んで、看板製作の仕事をしていた。
十一月のある日、知り合いになった近所の学会員から、「山本室長が、今晩、徳山に行かれる」との話を聞いた。
〝ぜひ、お会いしたい!〟
酒田は、仕事が終わると、居ても立ってもいられず、バイクを駆った。
伸一が宿舎にしている徳山の旅館までは、四十キロほどの道のりであった。
彼が旅館に到着すると、座談会が行われていた。伸一は、酒田に優しい眼差しを向けて、頷いた。
酒田は、じゃまにならないように、会場の端に座った。
幾つかの信仰体験が語られたあと、目の不自由な一人の婦人が手をあげて質問した。
――子どもの時に失明し、入会して信心に励むようになって一カ月ぐらいしたころ、少し視力が回復した。
しかし、このごろになって、また、元に戻ってしまった。果たして、目は治るのかという質問である。
〝室長は、なんと答えるのか……〟
酒田は、固唾をのんで見ていた。
伸一は、その婦人の近くに歩み寄って、婦人の顔をじっと見つめた。そして、彼女の苦悩が自分の苦悩であるかのように、愁いを含んだ声で言った。
「辛いでしょう。本当に苦しいでしょう」
彼は、婦人の手を取って、部屋に安置してあった御本尊の前に進んだ。
「一緒に、お題目を三唱しましょう」
伸一の唱題の声が響いた。全生命力を絞り出すような、力強い、気迫のこもった、朗々たる声であった。婦人も唱和した。
それから、伸一は、諄々と語っていった。
「どこまでも御本尊を信じ抜いて、祈りきっていくことです。
心が揺れ、不信をいだきながらの信心では、願いも叶わないし、宿命の転換もできません。
御本尊の力は絶対です。万人が幸福になるための仏法なんです!」