小説「新・人間革命」 薫風 58 2012年4月5日

懇談会のあと、山本伸一が向かったのは、学会員が営む緒高理容店であった。
彼は、店主の夫人である緒高紗智子との約束を果たそうと、訪れたのである。
──三日前、緒高紗智子は、北九州市に下宿して大学に通う長男と、北九州文化会館の見学に行った。
その時、会館の庭で、会員の激励にあたる伸一と出会ったのである。
彼女が、佐賀で理容店をしていることを告げると、伸一は言った。
「北九州の次は佐賀に行く予定なんです」
彼女は、とっさに、こう言ってしまった。
「その時には、うちで散髪してください」
伸一は、笑みを浮かべて答えた。
「時間が取れたら、お伺いします」
妻の紗智子から、その話を聞いた、夫の武士は、『俺は、学会員として大した活躍もしないでいる。
そんな俺の店に、本当に山本先生は来られるのか……』と半信半疑であった。
それだけに、伸一が姿を現し、「こんばんは! ご主人ですか」と、握手を求めて手を差し出すと、武士は、現実とは思えず、頭の中が真っ白になった。
思わず両手を合わせ、合掌のポーズをとってしまった。
すると、伸一も微笑んで合掌し、それから再び握手を求めた。
散髪が始まった。武士が、チョキチョキと軽快なリズムで、髪を整えていった。彼は、腕には自信があった。髪の毛を触ると、その人の体調も、ほぼ察しがついた。
伸一の髪を整えながら、武士は思った。
『髪の毛にコシがない! 長年にわたって、心身を酷使し抜いてきた疲れが、たまっているにちがいない』
伸一は、広宣流布という未聞の道を切り開くには、会長である自分が、捨て身になって戦わなければならないと心に決め、動きに動き、語りに語り、書きに書き、祈りに祈ってきた。
会長就任から十七年、毎日、毎日が、死身弘法の敢闘であった。
それがあってこそ、末法広宣流布という茨の道を、開き続けることができたのである。